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    10月17日の備忘録

    10月17日

    クリックの程よろしくお願いします。
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    真空パック計画は破棄が決定。メタボ軍の展開は既に開始済み。 主目標は変更された。
    http://chiraurasouko.blogspot.com/2010/10/blog-post.html

    宮崎正弘の国際ニュース・早読み(中国四都市での反日デモの背後)
    http://www.melma.com/backnumber_45206_4996723/

    本誌の中国経済の見方
    http://www.adpweb.com/eco/eco635.html

    キリシタン宣教師の野望(1)
    http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=239390

    キリシタン宣教師の野望(2)
    http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=239391

    キリシタン宣教師の野望(3)
    http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=239398



    134: ナカヤマくん(長屋):2010/10/17(日) 12:59:36.27 ID:eYbAQYjZ0
    産婦人科医から聞いた話だが、
    「実は夫の子ではない」と相談にくる確率は4%程度だそうだ。
    つまり25人に1人は自分の子供以外の子を自分の子と思って育てている。
    これは、あくまでも相談の割合でしかない。真実はしらんがな。
    てか、DNA採取は義務付けでよくね?
    病気の対策とか、犯罪対策に限っての使用で。



    102: 吉ブー(catv?):2010/10/17(日) 12:42:35.14 ID:Ly9liurH0
    以前にも同じように、「本当に自分の子か!?」と疑問を抱く男が多かったドイツで
    子供のDNA鑑定を、妻や本人の承諾なしで調べる事を認める法案があったけど、
    女性団体(笑)がヒス起こしてデモだなんだと猛反発した挙句ポシャったんだよな。

    マジ誰の子供育ててるかわからん世の中w



    377 :でんちゃん(愛知県):2010/10/16(土) 14:17:49.57 ID:u8bespeD0
    前カノは、俺が某大手企業を退職して自営を始め、収入激減した時期に俺を捨てて去った。
    今の妻は、その苦しい時期に俺を支えてくれた女。
    ところが今春、妻が買い物から帰って家に入ろうとしたところで腐った生ごみを投げつけられた。
    妻の悲鳴で飛び出したら、変な女が大声で叫んでる。
    前カノだった。
    「私が結婚するはずだったのに取りやがって!地獄に行け!!」
    前カノはそんなことを叫んでた。
    妻を家に入れてシャワーを浴びるように促し、前カノは110番して警察に逮捕してもらった。
    前カノは俺を捨てたあと上司と不倫の末、会社にバレて追い出されるように退社。
    その上司にも捨てられて、水商売で働きだし借金とDV男まみれの生活を送ってたらしい。
    とりあえず、聴取には厳罰を望むと答えておいた。



    「組織というのはほっておくと拡張主義に陥る」という考え方です。伊藤洋一
    http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/6dc4425c66fd2aa3cb040c23c6d6acd3

    日本の将来は公務員天下国家 (Unknown)
    2010-10-16 11:23:10
    日本ではデフレ不況や国債1000兆円残高でも公務員の好待遇は永遠に変わらない。
    この理由は公務員労組が民主政権の重要な支持基盤である事。
    官僚も労組とつながっている同じ穴のムジナ。
    公務員の世界では「当局官僚(経営者)=労組(一般職員)」だ。

    今や公務員給与は「地方では確実に一番高く」「先進国公務員の中で最も高給」である。
    しかも「終身雇用、年功序列賃金、わたり、高額退職金・年金」は永久に続く。
    さらに今後の65歳定年延長で60歳以降は超高給正職員の身分が保証される。
    これらすべての好待遇は「自らが公務員の人事院」により永久に保証される。
    人件費・給与の2割削減などたとえ日本国が財政破綻しても絶対に出来ない。

    これは「民間大企業正社員でも全くかなわない」。
    民間はこのデフレ不況で給与、退職金、企業年金は低下の一途。
    65歳定年延長は殆ど無く60歳以降は超低給の再雇用制度が殆ど。
    また実際の定年は希望退職募集で50代が多い。定年まで勤務出来る者は3割程度。
    ましてや「派遣や契約社員は公務員から見れば使い捨ての奴隷」のようなものだ。

    日本は民主政権のもと益々公務員が優遇され、江戸時代の士農工商が具現されて行く。
    また地方では兼業農家の農業戸別所得保障で優遇される場合が多い。
    デフレ不況、子供手当、65歳定年延長、農業所得保障で益々公務員は有利になり、
    今後の消費税大増税も手伝って近い将来日本は「公務員天下国家」となるであろう。



    冷戦 (blue)
    2010-10-16 13:03:21
    「アメリカは衰退する、これからは中国だ」
    「アメリカは日本を食い物にして来た、中国と組んで対抗しよう」
    と鼻息荒く高説をバラまいていた方々。現在進行形で親中小沢氏を擁護する自称ジャーナリスト達。
    誇りが無く、自立心も無く、事大することで生き延びようとする卑怯者達。
    お前等はまた西洋相手に戦争したいのか?
    お前等が賛美する中共は、理性の無い子供同然の人民をコントロール出来てないんじゃないか?

    新冷戦になるだろう。日中が最前線になるだろう。
    戦争を回避する為に、アメリカに利用されない為にも、新憲法を制定しましょう。もちろん9条など
    ゴミ箱行きです。中道右派の政権を望みます。日中我慢比べをすれば中国は分裂するだろう。



    Unknown (Unknown)
    2010-10-16 15:07:49
    10時ごろ、テレビ東京のニュースN親書で、尖閣のデモが隠蔽されて報道されなかったと報道
    されました。日本が中国のようになってきたと報道がありました。

    他には別の番組で、上杉隆が鳩山に直接メイソンが聴いたとあります。
    鳩山と上杉はメイソン系のツーカーの仲のようです。

    他、プチエンジェル事件が小沢の土地であったことがわかりました。
    実は統一協会までは知っていたのですが、まさか虚栄中のkciaの極真
    部隊と小沢が関係してるという情報が始めてでした。



    元外務省国際情報局長の孫崎享氏のTwitterから (Unknown)
    2010-10-16 18:04:01
    http://twitter.com/magosaki_ukeru
    今週分から抜粋

    米国雇用(雑感)1:本年3月ロス郊外ミッション・ヴィエージで五泊。全米で最も犯罪率の低い地域。犯罪率高いロス郊外で何故と思ったが答え簡単。居住地は数十家から数百家まとまり周囲壁で取り囲む。厳しい経済の中売り家広告なし。通勤は車。ロスの雑踏別世界。社会の富裕層と貧困層交差なく存在。

    米国雇用(雑感)2:富裕層と貧困層、独立し存在は安全保障面でも同様。徴兵制撤廃で兵士層と富裕層別世界。兵士の死傷富裕層に無関係。この社会現象緩やかな形で日本に進行中。非正規雇用。安全保障で『日米で対等な危険の負担」「共通の戦略」を説く人は自衛隊員の死傷を意味するをどこまで感ずる?

    FM 東京(80.0)19時timeline:外交についてインタビュー、収録済み。ターゲット20代30代初めを意図。外交とは、異なる価値観の調整。100点満点の51点自国の主張をいれることが目標値、日本は実は国際的に高い評価、平和的、格差小(減少傾向が残念)等とりとめもなく発言。

    工作4:冷戦後米国の脅威は日本経済。対日工作開始。1992年CIA長官ゲーツ(現国防長官)はデトロイト経済クラブで「情報活動の重点を経済に。新たな要請の40%は経済と発言。この時経済の中心は日本。九〇年代初期CIA対日経済工作活発化。国内に協力者育成、盗聴。日米会議前これを参考。

    工作8:日本警察等ロシア、中国の工作フォローは世界的にも高い水準。問題は米国。米国から工作を受けたとみられる人物が日本の社会で、政治、官僚、ジャーナリズムで枢要ポストを占めてきたのは世界的に異常。戦後日本の不幸。逆に自主派は各分野で淘汰。淘汰の実行者は日本人自ら。

    世界経済2:不満存在。表向きなかなか言われないが今日の最大の問題は国際的なものでなく、米国経済そのもの。欧州問題点かなり克服。米国に比較すれば欧州の問題は小。米国経済の問題は住宅部門、又高い失業率。米財務当局楽観的見通し。深刻な不況後には急激な回復ありとの原則の実現,見通し小。



    Unknown (Unknown)
    2010-10-16 15:04:25
    確か、東大に受かった秀才でもあるはず。どうなってんだ、この小物ぶりはw

    377 :名無しさん@十一周年:2010/09/06(月) 19:38:21 ID:mv/w6/xM0
    梯子を外された、ってゆーか
    事務所、じゃない裏の大物にシッポ切りされた?
    あとは拘置所で首吊りのコース?

    384 :名無しさん@十一周年:2010/09/06(月) 19:41:15 ID:Rnszq+kX0
    >>377
    押尾は裏の大物から自殺しろとほのめかされても全然気づかないタイプ。
    元気で刑務所を出てくるはず

    投稿 サルベージ船 | 2010/09/08 20:47

    GUNSN'ROSESを子守唄に母親の乳首を噛みちぎったお塩さん
    最期の最期に本当の大物ぶりを発揮してくれないかな。


    二日目の証人の証言が気になりますね。

    >検察官「田中さんが、押尾被告と関係を持った理由について尋ねましたか」

    >証人「最初はタレントだからということなのかなと思ったのですが、彼女は上へ上へと(成功を)目指していたので、(押尾被告の)取り巻きが大きいと主張していました」
    http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/100906/trl1009061131001-n5.htm


    >証人「そのころ彼女は女性と一緒に住み始めていたんですが、その子が子供を産んで、(田中さんは)『私が(子供の)父親になる』と言っていました。『今、私にとってチャンスなの。兄貴にも恩返しするから』とも話していました」

    >検察官「『取り巻きが大きい』と、そのときも言っていたのですね」

    >証人「はい」

    >《田中さんは「薬を飲ませたがる」という男の名前を、最後まで証人に明かさなかった。しかし、以前に押尾被告について話したときに使った「取り巻きが大きい」という表現を、このときも使用したという》
    http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/100906/trl1009061143003-n4.htm


    これ読むと師匠本人はどうでもよくてそのバックにいる人と渡りを
    つけるのが、目的だったみたいですね。落ち目の押尾自身が
    その「チャンス」を与えられるとは思えない。
    普通に考えれば押尾を介してその取り巻きに取り入ろうということ
    になるでしょうから。


    投稿 又骨 | 2010/09/08 21:12

    エントリともスレとも一切関係ないのですが、どうしても野次馬さんのブログに載せたくて書き込んでしまいました。すみません。

    416 :名無しさん@ピンキー:2010/09/03(金) 17:54:49 ID:Ja7D4Ye1
    撮影会まで行ったお気に入りの子が
    気づいたらAVにデビューしてたなんて・・・

    何てうらやましい体験をしたんだお前は・・・

    ラッキーな男よのう

    投稿 あわなびあ びっぷすたー 君をもっと 夢中にさせてあげるエロゲ | 2010/09/08 21:57

    「大山 米津 松井(現極真会館館長) 許」でぐぐると...出るね(汗)


    投稿 冗談廻し下痢 | 2010/09/08 22:14

    民主党党首選挙と並行して、押尾学被告の裁判が行われている。
    裁判員制度による初の芸能人に対する裁判でもあり、注目度が高い。
    選挙期間中はお互いネガティブキャンペーンはやらないようにしようと小沢と菅が合意したので、あまりマスコミには出てこないが、ネットというのは便利である、ちょっと探すとすぐに出てくる。(w
    たとえば、こんな感じに。。。
    押尾学、米津等史元衆議院議員に事件直後電話(リーク情報全文は下記)
    http://neo-generation.net/blog/2010/09/post-192.html

    既に国際金融資本のシナリオでは廃棄オルグ(細胞組織)として、特アからは廃物土台人として、というのが真相のようです。
    用済みになったエージェントの結末は哀れです。

    民主小沢氏、外国人参政権「付与の方向でいい」
    http://www.nikkei.com/news/category/article/g=96958A9C9381949EE2EAE2EB988DE2EAE2EBE0E2E3E2E2E2E2E2E2E2;at=ALL

    小沢氏、女性天皇容認 菅・鳩山氏を「政府要職に」
    http://www.nikkei.com/news/headline/related-article/g=96958A9C93819481E2EAE2E0E28DE2EAE2EBE0E2E3E2E2E2E2E2E2E2;bm=96958A9C9381949EE2EAE2EB958DE2EAE2EBE0E2E3E2E2E2E2E2E2E2

    投稿 鈴木宗男と小沢一郎 | 2010/09/08 22:20

    エイベックスが総会ライブ中止。
    イメージ低下が原因なのに、平然と嘘っぱちの説明してますね。

    ■エイベックス、来年から株主限定ライブ中止
    http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye4521965.html

    投稿 一八八 | 2010/09/08 23:30

    大山総裁は許詠中と昵懇でしたね。

    亀井さんも許と義兄弟でした。

    ま、昔の自民党の有力者は許と繋がってるんでしょうねw

    真樹先生って財布の中にははちきれんばかりの万札とアメックスのブラックカードが入ってるみたいですね。

    この人、あの朝堂院先生ともマブダチらしく銭ゲバですw


    空手道場と作家だけでは稼げないくらいの金持ってるのは事件屋的な事もやってるからでしょうね。

    因みに、先生の娘さんは先生の生き写しらしいですwww


    メロコアをやってるそうです♪


    こんなに黒い先生ですが、先生の描く男の世界は大好きですよ(^_-)


    VIVA梶原兄弟\(-o-)/




    投稿 デラシネ | 2010/09/09 01:07

     で、この国はどうなんの? お塩と一緒に消える国って、情けなくね? お塩なんか構ってる場合じゃないんだけどな。

    投稿 阿井卯栄男 | 2010/09/09 02:00

    森の息子「お前の一生の面倒は俺がみるから!」

    ?こんなやり取りあったのですか?


    投稿 ローレライ | 2010/09/09 07:54

    現場にいた、ピーチジョン社長と、森Jrの名前が出てこないのはなぜか?
    小沢を強調するのはなぜか?
    官邸が、この事件すら、利用しようとしている。↓

    http://minnie111.blog40.fc2.com/?tag=%CA%C6%C4%C5%C5%F9%BB%CB

    投稿 chiba | 2010/09/09 11:58

    > マス大山の死はかなり深い闇らしいね。

    どうでしょう?
    日本での実働部隊として加担していた事の方が、
    本当の闇だと思うのですが・・・



    Unknown (Unknown)
    2010-10-16 23:43:36
    東京裁判 死刑7人は日本国内法では無罪となっています。

    板垣征四郎 - 軍人、陸相(第1次近衛内閣・平沼内閣)、満州国軍政部最高顧問、関東軍参謀長。(中国侵略・米国に対する平和の罪)
    木村兵太郎 - 軍人、ビルマ方面軍司令官、陸軍次官(東條内閣)(英国に対する戦争開始の罪)
    土肥原賢二 - 軍人、奉天特務機関長、第12方面軍司令官(中国侵略の罪)
    東條英機 - 軍人、第40代内閣総理大臣(ハワイの軍港・真珠湾を不法攻撃、米国軍隊と一般人を殺害した罪)
    武藤章 - 軍人、第14方面軍参謀長(フィリピン)(一部捕虜虐待の罪)
    松井石根[5] - 軍人、中支那方面軍司令官(南京攻略時)(捕虜及び一般人に対する国際法違反(南京事件))
    広田弘毅 - 文民、第32代内閣総理大臣(近衛内閣外相として南京事件での残虐行為を止めなかった不作為の責任)

    石原莞爾は支那事変・日中戦争に反対し南進策でなく北進策を支持し解任されました。
    中国侵略の罪とは支那事変以後のことです。
    梅津何応欽協定・塘沽停戦協定で中華民国は満州国を承認していたのです。



    Unknown (Unknown)
    2010-10-17 00:20:05
    尖閣諸島の事件で北京の日本大使館前で起きたデモでは、デモ参加者が突然プラカードを出し、そこには
    「市政は腐ってる。僕の姉は黒社会に殺された。でも警察は黒社会と繋がっていて捜査してくれない。」
    とあったそうです。
    するともう一つプラカードが上がって、そこには
    「万博会場の建設で強制的に立ち退かされた。住むところがない。」
    とあったそうです。
    その人達は速やかに人民武装警察に排除されたそうです。
    二人が言うには、「日本大使館へのデモの最中だったらメディアが取り上げてくれるだろうと思った。」んだそうです。



    中国軍=アメリカ軍事産業

    「日本に米軍基地がある、本当の理由」、
    http://alternativereport1.seesaa.net/article/165723623.html

    「日本政府を、支配し、命令を下す、アメリカ側の対日エージェント」、
    http://alternativereport1.seesaa.net/article/165589475.html

    「尖閣諸島での、日本と中国との「対立・抗争」を画策する、アメリカの軍事戦略文書」http://alternativereport1.seesaa.net/article/165074608.html

    「アメリカ国家は、中国が建国した」、
    http://alternativereport1.seesaa.net/article/164758620.html

    「中国政府と、アメリカ政府の本質は、麻薬マフィアである」、
    http://alternativereport1.seesaa.net/article/164309281.html

    「中国の日本への、レアアース禁輸で実働部隊となって動いた組織・グループ」、参照。http://alternativereport1.seesaa.net/article/164195618.html

     アメリカ政府は、1993年から2008年までの間に、850機もの米国製の戦闘機の、中国軍への販売を行っている。

    中国の軍事的脅威、制空権の「中枢」を形成して来たのは、アメリカ政府である。

    この兵器販売の契約の中心にいたのは、米国のディロン・リード社であり、

    その社長がクリントン大統領時代の「国防長官」ウィリアム・ペリーである。

    かつて、日米安保条約の原文を「起草」したのは、このディロン・リード社の社長と副社長、敏腕営業マンの3人である。

    「中国共産党の脅威から、日本とアジア・太平洋地域の安全を守るために日米同盟=日米安保条約が必要」と言う事らしい。

    中国共産党の脅威=850機もの戦闘機の販売を行ったのがディロン・リード社自身である事は、「無かった事になっている」。

    このクリントン人脈が、オバマ政権の「中枢・多数派」を占めている。

    中国の軍事的脅威から「日本を守るため、安保条約と、自衛隊を作り、米国製兵器を日本に大量販売する」、軍事商社ディロン・リード。

    一方で、「日本が軍事的強国になっているので、日本の脅威から、中国本土を守るため、中国軍はディロン・リード社から、大量に兵器を買わなければならない?」。

    日本と中国が「対立」する事によって、ディロン・リード=アメリカの軍事産業は、「大儲け」である。



    バックアップのために載せました。こういうの載せると絶対主義の基地外が湧くので荒らす前に質問に答えてください。

    Q1:あなた様が愛してやまない天皇様は、戦前は軍神を気取った挙句「核」爆弾を2本尻の穴にぶち込まれてひたすらアメリカに平謝りして平和の象徴を自称、戦争責任を放棄、さらには現在に至るまでアメリカの対日本植民地政策(吉田ドクトリン、日米安全保障条約、プラザ合意、バブル崩壊、湾岸戦争1兆2000億、思いやり予算、日米構造協議、年次改革要望書、金融ビックバン、アフガンイラク戦争100兆、郵政民営化200兆(仮)、ノーベル賞のみかじめ料として為替介入計140兆など)を満面の、終始ご光悦の、笑みで日本人が塵芥のように逝く様を拝見、それだけにとどまらず尻の痛みがよっぽど痛かったのか当時生き残っていた日本国民にも「核」家族を打ち込んで核爆弾二桁分の人口をたやすく抹殺、残った「核」家族も年金、医療保障を国で賄う事になったために財政圧迫を激加速(因みに費用を国に一元化したのは中国共産党のように私利私欲、酒池肉林に使いこむためであり国民負担は関係なく、天皇も税金に群がる一人です)、させた御方です。
    それでもあなたが絶対視する理由があるのなら100字以内で答えてください。

    Q2:ここまで言ってもなお天皇様は悪くない!政治家と官僚とアメリカとマスコミが悪いんや!というのならあなたが今まで政治家と官僚とアメリカとマスコミを監視することをサボっていた理由を100字以内で答えてください。



    日本人が知らない近・現代天皇制の驚異の真相が暴露された!
    証言: 近代天皇制は海賊某の孫大室寅之祐を明治天皇にすり替えた
    長州の大陰謀で成立した (1)   =最新更新版=

    (1)と(2)一緒に掲載は: http://gold.ap.teacup.com/tatsmaki/24.html

    ここでは、筆者による歴史的評価は(2)を参照。
                                       
    以下に地家康雅 [じけやすまさ]氏から送られて来たこの件に関する証言の05年最新更新版を紹介する。                        
    前田 進  jcfkp201@ybb.ne.jp

    大室寅之祐=東京新明治天皇の出自と近代皇室について
                            地家康雅                             (2005バージョンアップ 2005年6月26日作成)

                         (1)
    私、地家康雅(引用注:下記の証言者で、以前に南朝系とされていたが、実は南朝と血統のない地家作蔵の3男地家朝平の子孫)は、地家寅吉大室寅之祐東京明治天皇の弟朝平の玄孫です。
    私の名前を出してもかまいません。以下の情報をのせていただけたらありがたい。

    「萩」へマンジュウつくりにいってくる
    (「マンジュウつくりに行く」とは「人の死体の山を築きに行く」と言う意味で平たく言えば「人切りしに行く」という意味。ようは1865年1月(明治天皇かぞえ年16歳)の高杉晋作による功山寺挙兵に大室寅之祐(当時寅吉)が参戦すると言う意味。)

    一、発端
    明治天皇が奇兵隊に属する力士隊士大室寅之祐であるとの説を、鹿島昇氏が新国民社から公刊し9年経つが、(裏切られた三人の天皇---明治維新の謎)一般人は知らず、歴史に興味を持つものにとって、このことは実に計り知れない衝撃であった。2chのスレに、南北朝問題に関する、情報がいくつか集まった。自信ありげな発信者は少数に過ぎないが、基本的には鹿島説にたって大室明治天皇説を敷行していた。残りの発言者は無知ないし、善意の第三者で大室説に対して、素朴な疑問をぶつけ、あるいは皇太子殿下に対して、感情的な悪声を投じていた。
    情報は大室天皇説と北朝説に大別される。前者は、「明治天皇は大室家から出たのみならず、皇太子殿下も今上陛下の子ではなく、大室近祐の息子徳川恒孝の子」であると言うもので、後者は「今上陛下は東久邇宮稔彦の息子三笠宮崇仁の御子である。」と明言するのであるが大室系を南朝と呼び(実は水戸斉昭の子である)中川宮朝彦系を北朝と称することにおいては全員の見解は一致しているようで鹿島説が世に浸透し共通の理解になっている事が伺えた。
    これに橋本龍太郎の出自が加わった。すなわち、「龍太郎の父龍伍は橋本卯太郎と大室ヨネの間の子である」との事。 大室ヨネは大室寅之祐の弟庄吉の娘であるから、橋本龍太郎は明治天皇(従って今の皇室)と同じ家系と主張することになる。論点は更に皇位継承問題に及んだ。

    ◆山口県田布施町麻郷の大室さん
    橋本龍太郎氏の祖母大室ヨネ(米)の父大室庄吉の兄大室寅之祐(東京明治天皇)についてお話します。
    そもそも、田布施町のタブーについて(この事)(大室寅之祐について)は、田布施町麻郷の古い人間なら500%知っている事実で、佐藤栄作、岸信介すらわかっていたが、うちの爺さんが「大室家が南朝光良親王の末裔で500年以上続いて、しかも寅之祐が大室家24代目なんて嘘だ!」と言ってた。始め意味が分からなかったが本質は、A. 寅之祐の大室家が本当に南朝後醍醐天皇の玄孫光良親王が1400年に吉野から麻郷に亡命して大室姓をなのってから24代も続いているのか? 
    B. 本当に寅之祐の実の父は大室弥兵衛なのか? 
    と言う事であった。その後の調査で実はAに関しては、大室家(後の大室家)は1800年頃から始まり、文政時代に初代大室家当主が死去(系図には大室家初代某の父は麻郷某というかかれ方してる。)(妻は1830年8月9日死去)。2代目大室文右衛門が家督を継ぐ。同時代に大室家は村の大庄屋となり家が繁栄した。同じ頃頼山陽によって、大室家の家系図が整備された。文右衛門の妻は1827年8月2日に死亡。子は1827年10月9日に早死してしまう。そこで大室又兵衛(1789年3月29日生れ)の息子大室弥兵衛(1813年6月14日~1879年)が文右衛門の娘ハナ(1815年12月5日~1903年2月1日)と結婚し大室文右衛門家(大室本家)の養子に入って大室本家3代目として家督を継ぐ。ハナと弥兵衛との間に子供が2人できたが一人目は1849年4月14日に早死し2人目は1853年に同じく早死してしまった。(以上地家の西円寺の過去帳による)(※だから、大室寅之祐の代で、大室家4代目にあたる。)
    大室近祐がワカルといってもせいぜい1863~1867年頃迄であろう。だから大室家が光良親王(1400~)から24代500年以上も継続してるとは嘘である。(500年以上も前の話等分かる訳無い)
    Bに関してはこれを踏まえ、本当の所は、苗字も無い海賊某の息子作蔵が地家吉佐衛門(1840年3月12日没)の養子となり「地家」姓を賜る。地家作蔵となのり田布施町麻郷地家に住み着いた。1843年頃、興正寺昭(ショウコウ)坊(照景?)と娘スヘが田布施町麻郷地家の西円寺に京都浄土真宗興正派、興正寺からやってきた(興正寺昭坊は興正派門主一族)やがて地家作蔵(生年月日は不明~1887年4月24日)と興正寺基子(SUEKO)=スヘ(1831年5月1日~1855年11月20日)が1844年頃結婚する。スヘが満13歳頃の時である。作蔵(1824年生まれか?)と結婚した1年後、スヘ満14歳の頃、第一子(男児?)をもうけるが1845年12月15日に1歳弱で病死した。その後スヘは長女ターケ(1847年4月14日生まれ)を出産。1850年1月10日(戸籍では庄吉の誕生日になっている)に戸籍名寅吉(普段使う通名は虎吉。後の大室寅之祐の明治天皇)をスヘの実家の西円寺にて出産。この頃(1849年頃)作蔵が西円寺の東隣の麻郷「地家」に家を建てる。だから戸籍を作る時、「地家」の地名を苗字にした。(「地家」とはそもそも村の中心地と言う意味)
      1852年12月8日(戸籍では寅助の誕生日になっている)戸籍名庄吉(通名は省吉)出産。1854年2月29日に戸籍名三男朝平(通名は浅平、浅蔵とも)出産。(俺の高祖父)
     >>その後、1854年の春頃(4月頃?)に作蔵とスヘが離婚。長男寅吉、次男庄吉をスヘが引き取り、多分西円寺の実家?へ戻る。 大谷(興正寺)昭坊(照景?)の家か??
      (京都には帰ってないであろう)長女ターケと3男朝平は作蔵が引き取る。その後、作蔵は某女性と再婚する。(作蔵の後妻某は明治4年9月1日死去)
      1855年1月?頃(祖父の記憶では寅吉がかぞえ6歳の時)大室弥兵衛とスヘ再婚。スヘは大室弥兵衛の2号となる。(弥兵衛の本妻は前に書いたとおり大室文右衛門の娘ハナ)
     地家寅吉は大室寅吉(後の大室寅之祐明治天皇)に。地家庄吉は大室庄吉となる。1855年11月頃、大室弥兵衛とスへとの間に大室寅助が生まれたが直後、スヘが産後のひだち悪く肺結核で死亡。(1855年11月20日没)(西円寺池で入水自殺か?大室近祐説)。寅助の方も1857年6月22日に1歳数カ月で病死。文政時代に初代大室家当主が死去してから4代目と思われる大室寅助死去により大室家断絶。大室本家は実質作蔵の息子たちにのっとられた。(大室家に海賊の血が混入してガラが悪くなった)
    そこから先は、鹿島昇著、新国民社刊『裏切られた三人の天皇 ── 明治維新の謎』に書いてある通りなので省略。1863年8月18日の政変により長州尊攘派、七卿とともに京都より追放される。そのため朝敵となった長州藩在京勢力は三条実美ら七卿をともなって長州麻郷の大室家に落ち着いてかぞえ14歳になったばかりの寅吉を見て喜び滞在中非常にかわいがって日々をすごしたという。(1863年8月~9月頃)その後1863年寅吉は奇兵隊に参加。1863年から1864年まで伊藤俊輔が大室家に立ち寄るようになった。1865年1月寅吉かぞえ16歳の時、錦の旗と南朝の首飾りをつけマンジュウを作りに行くと言って萩へ行き高杉晋作による功山寺挙兵に参戦。見事に勝利する。
      弟の庄吉のほうはそのため別府村の高城家にあずけられて別居する事になった。この庄吉が実家の大室家に帰ったのは 1866年10月末頃、俊輔が寅吉(玉)を麻郷から連れ出した後のことであった。萩の杉家(松蔭の実家)へ玉を移し松蔭の母・杉瀧子によるしつけ教育をうながすことにした。(護衛は力士隊)この時期に麻郷では寅吉が行方不明になったというので大騒ぎになった。麻郷村の人間が手分けして探した。(庄吉はこのとき上関宰判所へ呼び出され大庄屋時政藤五郎の取調べを受けて小役人たちに拷問されたが歯を食いしばってがんばりとおし、遂に行方を白状しなかったという。)
    ◆行方知れずになってから(1866年10月末頃以後の大室寅吉)
    情報 1.
    大室寅介について(大室寅介とは庄吉のこと)
     京都の上賀茂神社って知っているでしょ。毎年9月9日に烏祭(からすまつり)ってのがあるのだけれどさ、このお祭りで奉納相撲が行われるのだけれど、この奉納相撲の記録ってのが残っているんだ。(記録って言っても寛政4年以前は残っていない) この記録には慶応2年(1866年)の奉納相撲の出場者の中に「村岡権七、名和小一郎、天野才五、西沢半次・・・・」って続くんだけど、その中に、「大室寅介」という名前があったぞい!
    大室庄吉(近祐氏の祖父)が奇兵隊所属の力士隊に大室寅介と言う名前で参加しており、明治維新後、奇兵隊の残党として1868年1月下関宰相に投獄されていた事が判明。(『萩東照宮文書』)
    情報 2. 大室虎助について
    (大室虎助とは大室弥兵衛の弟?大室惣兵衛が萩に在住していてその息子のこと。 松蔭ははじめ南朝満良親王の血を引くこの親子を玉(天皇)にしようとした。 庄吉も寅吉(寅之祐)も連れ子で、南朝大室家の血統ではないから。)(虎助は京都明治天皇睦仁と同じ年で新撰組に殺された)
    新撰組が長州の不良力士達を殺害する事件があったのは慶応3年10月29日。沖田総司が殺害した力士の中に大室虎助(16)の名前があった。下鴨神社蔵の「神楽勧請録」の慶応3年の記録には、「大室虎助(16)(中略)等、同年10月29日、新撰組ガ為二被害」とあり、新撰組側の記録にも「(慶応3年11月)先日、長州の不逞力士5人を誅す、残党なお洛中に潜する無し」(『慶応洛中日
    記』『会藩新兵余話』・『新撰組遺事』等)とある。
    その後、大室寅吉(寅之祐)は新撰組に斬り殺された、と言う事になってるそうだ。(本当は虎助が殺されただけ。田中光顕が三浦天皇に語った萩生まれの玉とは満良親王系の大室虎助のこと。庄吉も寅吉も繰り返しになるが田布施町麻郷生まれだから。なお寅吉は1866年1月時点で奇兵隊の力士隊を卒業していたと言う。)
      こんなのあったよ!
    大室寅之祐の実の母、スヘの実家が興正寺だとしたら何か関連があるのかもしれない。(母の実家、興正寺を革命のアジトにしてたのかも知れないし、麻郷に徳川系柳生の忍者跡があった様に、佐幕派が不良力士達を監視する為の施設が京都興正寺周辺にあったかも?こう考えると正式に明治維新は革命だったと思えてくる。この辺を調べない事には幕末の歴史、動きが分からなくなってしまう)
     不動堂
    木津屋橋は堀川に架かった橋で七条通りの二筋南。この橋の東西の通りを木津屋橋通りと言う。油小路は南北の通りで、この付近は現在の堀川通りの一筋東。木津屋橋通り油小路の南に不動堂がある。現在の不動堂は油小路塩小路の南の小堂になっているが、旧幕時代は境内の敷地も広く、有名な不動堂であった。
    慶応元年(1865年)9月末、この不動堂村に新選組は京都の最後の屯所を置いた。推定 3700坪と言う大名屋敷並の豪華な新築で、幹部は個室を持ち、30人程も入れる大浴場もあったと言う。
     木津屋橋油小路 不動堂村屯所の筋向かいの興正寺の下屋敷に近藤勇は妾を置いていた。此処に慶応3年(1867年)3月に新選組から離れた伊東甲子太郎を近藤が招く。計画された暗殺である。同年11月18日、近藤勇、土方歳三、山崎烝、原田左之助らが集まり、酒宴となる。帰り道伊東が木津屋橋通りを東に謡曲を歌っていた所を、大石鉄次郎が槍で伊東の喉を刺した。伊東は刺されながらも刀を振るい男を切り伏せる。しかし、深手を負い、東の本光寺門前で倒れ絶命した。 伊東の死骸は七条油小路の辻に引きずられ置き捨てられる。これを引き取ろうとして駆けつけた御陵衛士7人もまた新選組隊士40人に囲まれ斬り合いになる。藤堂平助ら3人が斬殺される。藤堂は新選組の前身、試衛館からの同志であったが、伊東について隊を離れた人物。この殉難を恨んだ
    衛士側は、12月18日、伏見街道の墨染で鉄砲を用いて近藤に重傷を負わせた。
     情報 3. 大室寅助(変名)(大室寅之祐のこと)について
    (大室寅助とは行方知れずになった1866年10月末頃から1867年10月頃までの大室寅之祐(寅吉)の変名のことで、スヘ(基子)と大室弥兵衛の間の1歳数カ月で死んだ大室家4代目の血統の寅助になりすましたわけ。)(情報2にも書いたが庄吉も寅吉も作蔵とスヘの間の子でスヘの連れ子なので大室家の血統ではないから。) 
    寅吉(明治天皇)は寅助(早死)ともとれる名前を名乗った。そこには節目の改名というより周囲が大室本家の血統である虎助(斬殺)や寅助(早死)と混同するのを誘うような積極的な作為が感じられる。事実、先にも書いたが後の田中光顕伯爵も明治天皇の入れかえは承知していたが正体は萩の満良親王系の大室虎助(斬殺)の方だと思いこんでいた。 寅吉が注目を浴びだすのは1863年頃、高杉が奇兵隊を結成して入隊してから。前にも書いたが1863年から1864年にかけて伊藤博文が麻郷の大室家に遊びに来たころで、七公卿落ちの時三条が大室家に立ち寄ったのもこのころ。だから吉田松蔭と寅吉の接点はなく、吉田松蔭の死後1863年ころから寅吉が玉として浮上してきた。(伊藤の玉が寅吉。)
    (情報)山口県萩市の萩八幡宮の「延命寺燈篭」には、「万治参年・・・大室寅助」の名前が刻まれている。ただ、万治3年と言う年は本来存在しない。計算上は慶応3年という事になるが。西円寺にも「延命寺石灯篭」あったで。
    >>万治(慶応)3年は西暦1867年に該当。万治3年は「慶喜に応じる」という意味にも取れるので、長州では慶応の前の年号である「万治」を使用していた。延命寺(えんみょうじ)は天台宗東叡山寛永寺の末寺だったので、慶応3年5月に倒幕派によって焼失。 ちなみに幕府が慶応の次に決めて
    いた年号は「延寿」。出典は『後漢書』「王允伝」より。
      そして、1866年10月末頃まで戸籍名大室寅吉(通名(普段つかう名前は)大室虎吉)はこのころ大室寅助と改名し一時、繰り返しになるが松蔭の母・杉瀧子によるしつけ教育をうながすため俊輔が麻郷から玉を連れ出し萩の杉家(松蔭の実家)へ移し1867年3月下旬「玉」は田中光顕や力士隊に守られて萩から周防高森に移る。手紙がきて寅助(寅之祐)が上洛するから大室弥兵衛が高森までおみまいにいったが寅助(寅之祐)にあえず、麻郷へ帰ったという。それから「玉」は一時期通化寺の遊撃隊屯所に滞在していたが岩国新湊から英国船で品川弥二郎や中岡慎太郎とともに上京して1867年4月13日、二本松の島津屋敷に入った。しかし新撰組に捕まりそうになったので1867年10月17日に寅助を寅之祐と改名し亡命するため女装した「玉」が芸者風に変装した女官たちを連れて京都を脱出。西郷らの忍者部隊にまもられて英国船などにのり一同は1867年10月下旬、田布施町麻郷の大室家に帰ってくるのである。
      それが、「大室虎吉改め大室寅之祐が芸者連れて麻郷に帰ってきて・・」 と書かれた例の資料が出てきた話に通じる。(鹿島昇先生調べ)1867年11月倒幕出兵軍、海路進発11月初旬には薩摩の軍船2隻が麻郷米出浜に着岸し兵800を率いて上陸してきた島津久光と、博多から同乗してきた三条実美ほかの五卿も合流した。(麻郷に島津久光の薩摩屋敷跡あり。)11月13日藩主島津忠義が自ら率いる薩摩藩主力3000は倒幕のため鹿児島から4隻の巨船にのって西宮へ。後上陸。
    (1867年11月15日慶喜追討に反対してた坂本龍馬と中岡慎太郎が伊藤博文、山縣有朋、井上馨、3名によって暗殺される。)11月25日長州藩は近代的装備の第一陣1200の兵を藩船7隻に分乗させて三田尻を発し第二陣1000人の部隊は陸路西宮へ進軍した。
      先の島津忠義軍と西宮で合流し大洲藩は勤皇藩として西宮の藩邸に長州薩摩軍を無血上陸させるなど貢献した。そして一同は鳥羽伏見の戦いのため準備をした。大室寅吉が大室寅助-寅之祐と名前を巧みに変えたのは伊藤博文が林宇一や林利助や俊輔の様に名前を変えて変名を用いたのと同じ事。このような状況のもと、倒幕軍の進発予定が麻郷に届いて「玉」および奇兵隊一条勝子以下三条ら五卿、島津久光、薩長同盟幹部一同は打ちそろって1867年12月9日、田布施町麻郷井神の高松八幡宮にて「王政復古の大号令」を発し新調の錦旗を掲げる官軍(薩長諸隊)の出陣式を行った。(だから通史にある王政復古の大号令(1867年12月9日)とはもちろん京都での話ではない。)(今でも麻郷には三条実美らが滞在したと言われる石碑がひっそりと残っている。) 
      午後の小御所会議もそうで、通史にある京都御所での話ではない。このあと12月下旬彼らは室津(上関町)から英国船など2隻に乗船し薩摩の軍船2隻と合流し、おくれて京都をめざした。鳥羽伏見の戦いの時明治天皇自ら閲兵したというのはウソで戦い中大室寅之祐は大阪湾に浮かぶ軍艦の上に立ってた。(護衛は第二奇兵隊)鳥羽伏見の戦い中(1月3日)、慶喜軍が砲撃してくるから大阪に上陸できなかったという。
      その後、鳥羽・伏見の戦いで薩長軍勝利。このとき寅之祐が大阪に初上陸。(大阪に明治天皇上陸の記念碑あり。)一同は京都御所をめざす。1月8日慶喜は松平容保、松平定敬ら重役連と軍艦開陽丸にのり江戸に逃げ帰った。1月10日のあけがた京都御所にいた睦仁(京都明治天皇)は御所を脱出。鹿島昇が京都明治天皇は暗殺されたと書いてたがウソで維新後、京都明治天皇は比叡山方面の某寺で僧として生き延びた。同日入れかわるようにして大室寅之祐が軍隊を引き連れ京都御所に入った。
      旧暦1868年(慶応4年)1月10日から1月15日までの間人事の一新が京都御所で行われた。この一新が「明治維新」の語源となる。(手柄のあった奴に論功賞をあたえた。)慶応4年1月15日、大室寅之祐が新明治天皇として正式に御所ですりかわって即位。15日以降の明治天皇の伝記についてはドナルド=キーン氏『明治天皇』上巻に詳しい。
    1. 天皇すり替えに関しての疑問
      天皇(院)の存在自体知らない、あるいは存在は知っていても、現代の様にテレビがある訳では無いので顔は知らない、と言うのが庶民レベルなのかなと思いまして。だとすれば顔が変わっても、庶民には分からないのかな?と思った次第です。
    2.解説
      いやいや、実は、テレビが無い時代庶民は情報を得難かったと思うでしょう。それがどうも違うみたいなのです。と言うのは、孝明天皇暗殺事件や井伊大老の暗殺事件等はとっくのとうに京の庶民の間に噂が広まっていた訳ですし、古くは菅原道真の時代(平安時代)等も、一般庶民の間に道真の怨霊(天神様)の噂があった位ですから。案外庶民と言うものはばかじゃないのですよ。鹿島氏の著書に、京都御所内だから天皇を大室寅之祐にすり替えた所でばれない等と書いてありましたが、正しくは、鳥羽・伏見の戦で薩長軍が勝ったからこそ、(勝てば官軍)旧暦明治元(1868)年1月15日に、大室寅之祐が京都御所で「新明治天皇」として迎え入れられ即位した訳です。
    それまで玉(大室寅之祐)は京都の薩摩藩邸に待機していた訳ですが、仮に京都御所内ですり替えられたとしたら、公家や女官が何百人もいる訳で、全員の口を塞ぐ等と言う事は無理な話ですし、まえに書いたとおり孝明天皇暗殺の噂と同様に、瞬く間に天皇すり替えの噂が京の庶民に広まるでしょう。ですから、田中光顕が三浦天皇に語った通り、明治天皇はすり替えられたというより何度でもいいますが鳥羽伏見の戦いに勝利した薩長軍が睦仁(京都明治天皇)を御所から追放し同じく京都御所に維新の時、大室寅之祐が迎え入れられたと言う方が正しい。
    慶応3年(1867)年1月、京都明治天皇(睦仁親王)は即位しました。しかし京都明治天皇の方も中山慶子が流産したため、ひとさらいつかって拉致してきた子を京都明治天皇(睦仁)にしたてたから睦仁が即位した次の日から京都御所内はパニックになった。そこで睦仁は中山忠能と中川宮朝彦らに京都御所のまつりごとをまかせ、約1年間中山慶子の実家の中山忠能邸でひきこもり過ごすことになった。
    慶喜は、斉昭の息子中川宮朝彦(自分の兄)を上皇にするつもりで自分は雄藩連合の長、いまでいう総理大臣になるつもりだった。だから慶喜が勝をつかって勝が坂本と相談し、坂本が慶喜を総理大臣にするため木戸と西郷を引き合わせ薩長同盟をむすばせた。つまりはじめは、いまふうにわかりやすく例えたら薩摩党と長州党と慶喜党の3党連立で慶喜内閣を作ろうとした。がその後長州(木戸)がこれに反対。 木戸も西郷も寅之祐に権力もたせたいが為、慶喜と中川宮双方に消えてもらう必要があった。
    慶喜に権力を持たせると幼帝(寅之祐)の命が危ないと…。さらに慶喜の背後にフランス軍がついて薩長の背後にイギリスがついていて、イギリスは日本がフランスの植民地になるくらいならイギリスの植民地にしたいと考えイギリスのパークスが、慶喜と背後のフランスをつぶすために「開国を認める天皇(寅之祐)の元で薩長藩閥政府を作り慶喜を排除せよ」と命令。坂本と中岡が慶喜追討に反対し邪魔になったため伊藤、山縣、井上馨ら3名に暗殺された。(龍馬暗殺を指示したのは木戸)(勝も暗殺される予定だったが必死になって逃げ、命だけはたすかった。)薩長軍にイギリスが加担し慶喜軍にフランスが加担し戊辰戦争(鳥羽伏見の戦い)勃発。兵の数では慶喜軍のほうが薩長軍のより3倍もいたが薩長軍の新型兵器アームストロング砲で慶喜軍と中川宮は敗れ去った。上野の戦いでは家達と玉の東武皇帝を打ち破り、寅之祐が天下をとったわけ。
    (1868年1月15日以前の)即位当初の少年京都明治天皇(写真
      http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu3/meiji.html

    睦仁親王(京都明治天皇)は幼少の砌(みぎり)、裕福であったので種痘を受けた。故に疱瘡(天然痘)には罹っておらず、顔面に「あばた」は無かった。睦仁親王(京都明治天皇)は、右利きだった。御所の女官達の中での温室育ちであった睦仁親王は、充分に教育され帝王学を学んでいた訳であり、当然躾(しつけ)も厳しかった。故に、左利きになる訳が無く、ひ弱で喩(たと)えは悪いが女癖も悪くは無く(育ちが良かったので)、右利きであった。基本的に「佐幕攘夷」。(親徳川=公武合体派) 先帝・孝明天皇の政策「攘夷」を継承。この場合、「神風」でも吹かない限り、「攘夷」の実行は不可能。英・仏と言った欧米列強とまともに戦った所で、日本が負ける事は端から分かり切っている。つまり、天皇=現人神(あらひとがみ)が不可能な事を命令した事になり、倒幕開国派(薩長)
    にしてみれば、天皇をすり替える必要に迫られた。
    元治元年(1864)年7月の「禁門の変」の際、砲声と女官達の悲鳴に驚いた睦仁親王(当時13才)は「失神」した。睦仁親王は幼少より「虚弱体質」で、毎年風邪をこじらせていた。又、16才になっても、宮中で女官と一緒に「遊戯」にいそしんでいた。睦仁親王は16才になっても、書は「金釘流」、つまりは「下手」であった。又、政務にも無関心であった。即位前の睦仁親王に、「乗馬」の記録は残っていない。つまり、馬には乗れなかった。
    即位後1868年1月15日からの明治天皇◇明治維新後の大室寅之祐の東京明治天皇(写真) 
    http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu3/meiji2.html

    明治天皇(大室寅之祐)は、家が貧しく野生児だったので、2歳の時、痘瘡(天然痘)に罹った。その結果、口の周りに「あばた」が残った。その為、明治天皇は自身の写真を撮られる事を好まず、わざわざ、キヨソーネに描かせた「肖像画」を写真に撮らせて「御真影」とした。又、「あばた」を隠す為に、髭(ひげ)を生やされた。明治天皇(大室寅之祐)は、左利きだった。左利きになったのは、寅之祐がかぞえ5歳の時、母親が離婚した為で(『大室寅之祐(明治天皇)の出自と近代皇室について』を参照の事)、母親が息子寅之祐にかまってあげられる余裕が無かった結果として、左利きとなった。又、維新後の天皇は良い言葉で言えば艶福家であった。
    基本は「倒幕開国」派。(薩長派=目的実現の為には、「天皇暗殺」をも厭(いと)わない自称「勤皇派」) 孝明天皇の政策「攘夷」を180度転換。この場合、天皇=現人神の「御聖断」(攘夷放棄と開国承諾)により、日本の開国近代化が実現。国策としての殖産興業・富国強兵によって、アジアで唯一、列強の地位を獲得。明治天皇は威風堂々、馬上から近衛兵を閲兵し、自ら大声で号令した。体重24貫(約90Kg)の巨漢で、側近の者と相撲をし、相手を投げ飛ばしたと言う。明治天皇は、書が「達筆」であった。又、学問にも熱心であり、教養豊かであった明治天皇は、明治時代軍隊を馬上豊かに閲兵した。
    大室寅之祐の東京明治天皇(写真)(薩長同盟成立の記念写真) 
    http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu/ishin.html

    (1866年1月。当時大室寅吉。長崎にて。前の列、左から7番目の白い服を着た方。中央のフルベッキ(外国人)の真下の左の白い服着た方が東京明治天皇。フルベッキの真上のやや左が西郷隆盛)
    ◆その他 興正寺基子(SUEKO)=スヘの家柄に関する情報
    興正寺(本願寺興正寺派)は浄土真宗では東西本願寺に次ぐ大宗派。
    Q.スヘの父、大谷(興正寺)昭(ショウコウ)←この人はやはり高松松平家の血統ですか??
    A.(徳川家康→水戸頼房→高松松平頼重→女子(興正寺由常室)・・・興正寺昭ースヘ)
    Q.と言う事は今の天皇家は浄土真宗興正寺派(西本願寺)の血統ですか??
    A.と言う事になりますな。結論から言えば。
    Q.そう言えば昭和天皇の母方の九条家も確か大谷家の血縁でしたっけ??
    A.そうです。
    Q.大谷(興正寺)昭←この人がスヘを連れて田布施の西円寺に来て親子で住み着いたという説は?
    A.正式には同じ浄土真宗本願寺派の西円寺に赴任した。
    Q.高松松平頼修と言う人はいませんが頼寿(貴族院議長)の間違いですか??
    A.間違いではありません。
    Q.元々、大室家と高松松平の繋がりは何処から(何時から)来てるんだろう?
    A.これは高松松平頼修公の出自と関係しますが、頼修公の祖先は高松頼常公(光圀の唯一の子)であり、公式には二人の男子がありましたが、どちらも夭折しています。
    (恐らく謀殺)これは水戸家の家督争いが関係していますが、高松頼常公には死後に生まれた男子は長州藩に匿われ、育てられたためです。なお万千代君の母親が長州藩の出身です。  
     (興正寺家) 毛利元就 ─ 女 ─ 宍戸元秀 ─ 女(小早川秀秋正室・後に興正寺准玄室)─ 准秀昭超・・・・・・スヘQ法号の記載のあったお寺は西円寺なの? それとも違う寺かなあ?(先生に質問)
    A現在は京都興正寺(浄土真宗興正派)に有り。
    本名「興正寺基子」(こうしょうじ-すえこ)。始めは末子、季子、後に基子。興正寺(浄土真宗興正寺派)門主一族の出身。位牌は不明で無ければ「謙徳院殿叡仁基成大姉居士」等と最高級の名前は贈られない筈。位牌は明治20年に東京に持ち去られ戦災で消失? 但し興正寺には過去帳は残っており、スヘ様の存在と法諡が判明。
     新撰組の屯所は、西本願寺内に置かれたが、これも西本願寺が、「勤王方」と見られていた事に対する嫌がらせと見張りや牽制の意味が有ったのだろう。
     幕末の動乱期、慶応3年既に徳川慶喜が大政奉還を表明しているにも関わらず、幕府に対して、「家康公以来の恩義を受けて、今日あるので末寺の門徒、僧侶による軍隊を編成して、幕軍の指揮下に入りたい」等の申し出を行っている。が、慶応4年の戊辰戦争の勃発で時代の潮流を感じたのか突如、厳如は妻和子の兄に当たる勤皇派の山階宮晃親王を介して「徳川家の義は軽く、天恩の義は重く門末挙げて、勤皇に尽くす」と言う一札を朝廷に差し出し、以後態度を急変、御所の警護や討幕運動の資金調達に全国を走り回ったのだった。
     佐幕から、勤王へ路線を変更する事で教団の組織維持を図った訳だが、この事は明治天皇のおかあちゃんが興正寺基子(スヘ)で浄土真宗東西本願寺に影響があった人だが、何か路線の変更にその繋がりから影響が有ったのだろうか?? これでやっと謎が解けたね。
    前に寅之祐は西円寺で生まれたとか言ってたよね。しかし、何故、作蔵の家ではなくて、西円寺なのか疑問だった。昔はお産の場所に寺等を借りる事も有ったのかと思ったがそう言う事は無かったらしいし。つまり、西円寺は作蔵妻スヘの実家だった訳だ。実家で出産するのは当たり前だもん
    ね。一代で財を成した作蔵が西円寺の東隣に家を建てた。そこで西円寺の寺娘のスヘと知り合い、恋愛して結婚した。そして、生まれたのが寅之祐、庄吉、朝平だった。
    スヘの父親は大谷家の血筋で、何かの理由で西円寺へ下向した。こう言う経過なのだね。
    ◆作蔵について(人生何があるか分からない)
    作蔵はおよそ満20歳の頃、スヘ(何と満13歳)と結婚。寅吉(後の大室寅之祐)はスヘ18歳、作蔵がおよそ25歳の時の子。だから作蔵とスヘが夫婦仲悪かったから結果的に離婚出来、子どもを引き取ったスヘが満41歳の大室弥兵衛と再婚出来、寅吉が大室家の南朝神話を利用して京都明治天皇とすり替わって東京明治天皇に即位する事が出来た。
    前にも書いたが孝明天皇と中山慶子との間の子ども「本当の明治天皇」は流産した。だから京都明治天皇も人攫いつかって誘拐してきた男児をすり替えて京都明治天皇とした。しかも虚弱体質で孝明天皇の子ではないから即位当初から御所内が大混乱になった。当面は中川宮朝彦と中山忠能らが御所の政治をしきったが慶喜軍が鳥羽伏見の戦いでやぶれると1868年1月10日のあけがた京都明治天皇(睦仁)は京都御所から追放された。(睦仁の京都明治天皇は亡命したというほうがてきせつか?)(その後、まえにもかいたが比叡山方面の某寺に入り僧として維新後も生き延びた。)
    一方、スヘも弥兵衛との間に一子儲けた。(スヘ24歳の時)前にも書いたがこれが本当の大室家当主大室寅助だが虚弱体質で1歳数ヶ月で早死。それより少し前、スヘも病死。この時、寅吉(寅之祐)はかぞえ6歳だった。後世、明治天皇の女癖が悪かったのは母親の早死による女性の愛情不足からだろう。40歳と言う異例の高齢女性大室文右衛門の娘ハナは前に書いたとおり大室弥兵衛の本妻だが寅吉(寅之祐)はこの継母(ままはは)に育てられた。 さて、作蔵の職業を祖父から聞いたのだが、作蔵はパワフルで海の男みたい。廻船業者で明治20年、死ぬ迄その職で有ったらしいのだが、多い時で15人位の部下を持ち2隻の船を使って、屋根瓦を屋根にくっ付ける時に使う粘着剤の役を果たす特殊な泥(上手く日本語で説明出来なくてスマン)を田布施町麻郷から愛媛迄運んで(時には大坂湾迄運んだ)利益を得る仕事で営んでいたみたい。
    1849年頃? その利益で既におよそ25歳頃と言う若さで西円寺の東隣斜め上チョイの所に家をぶっ建てた。 当然、刺青していて、体格は明治天皇よりごつくて光格天皇の様に背も高かった。以前は違う所に住んでいたみたい。だからそれ以前の我が家の足取りは不明。(何処の寺の過去帳調べたらよいのやら) 「地家」と言う所に家を建て間も無く寅吉(大室寅之祐 1850年1月10日)が生まれた。前にも書いたが、だから戸籍を作る時自分の家の地名を自分の家の苗字にしたようだ。(「地家」の名前の由来は「村の中心」と言う意味。)
    西円寺から麻郷小(明治5年創立)に行く途中ゼンリンの住宅地図に小さな文字で「集会所」と書かれた所があってそこが昔の麻郷村役場だった。 明治20年に作蔵の死と共に家業は百姓一筋になった。(作蔵の位牌は明治20年柳原愛子が作蔵の葬式の時、東京から麻郷にやってきて位牌を京都へ持って帰った)葬儀は西円寺。祖父の話によると明治天皇の実の父だから作蔵の痕跡をけすため愛子が東京からきたらしい。だから、西円寺に作蔵の位牌も無いし、お寺の過去帳にも作蔵の記載は無い。
    明治20年柳原愛子が田布施に来た(「鹿島昇」先生)目的は作蔵の葬式で西円寺に来る為。帰り女官の一人が大室天皇の秘密を(余計なことをつげぐちして)漏らした事に愛子が激怒。刀で某女官を斬り殺した。 京都に帰り立ち寄り(興正寺)、スヘの位牌も柳原愛子が東京に持ち帰ったが戦災で焼失。こちらは位牌は無いが過去帳に記載有り。興正寺の過去帳によると、スヘの法諡は「謙徳院殿叡仁基成大姉居士」。最高の法諡らしいのだ。(「鹿島」先生調べ)ところで明治天皇の写真は1枚しか残ってないらしい。なぜなら天皇をすりかえたことが国民にばれるとこまるかららしい。
    大室寅之祐の弟、庄吉の孫、大室近祐は祖父庄吉から聞いた話として、「わしがかぞえ12,3歳のころ、伊藤俊輔は毎日のように家に来て兄(寅之祐)を連れだし、石城山に登っていた」 という。 石城山の練兵場では常時四〇〇人近い兵が銃陣訓練を重ねており、時には近くの皇座山で鹿狩りなども行われていたから、寅之祐の士気を鼓舞して乗馬や剣術を教えたり、同年輩の隊員と角力をとって鍛えるにも最適の道場であった。 このときの寅之祐との深い関係が、維新後の伊藤博文の権力を作ったのである。
      孝明天皇暗殺の真犯人が、初代総理大臣になった伊藤博文であったのは真実である。そして、この暗殺は南朝革命のために睦仁親王暗殺、将軍家茂暗殺とリンクしていた。 彼が、人斬り名人と認められたのは17才頃であるが、大物を斬殺する度に名前を変え、幼名は利助であったが、利介、利輔、俊輔などと名前を変えてきている。大室寅之祐(明治天皇)は、長州奇兵隊の伊藤博文の力士隊の隊士であったから、伊藤の子分同様であった。
    大室寅之祐明治天皇と、追放された京都明治天皇睦仁(孝明天皇の実子とされてる)は性格も能力も全く異なり、東京遷都のとき京都で仕えていた女官を全員解雇したのも、口封じの意味があったのだろう。さて、「できもしない佐幕攘夷」を主張し続けて政局を混乱させていた北朝系(足利
    義満の後裔)の孝明天皇が、「倒幕南朝革命」を指向した薩長同盟と岩倉具視らの演出によって暗殺されたのは、慶応2年(1866年)12月25日洛中下京区岩滝町の堀河紀子邸であった。 同月中旬、英国軍艦に便乗してひそかに上京し、薩摩屋敷をアジトにしていた長州力士隊の忍者集団は、品川弥二郎らの手引きで堀河邸の警備につき、痘瘡の治った孝明帝が愛妾紀子のもとへ行幸してくるチャンスを待った。
    やがて25日の明け方、便所の床下に隠れていた隊長の伊藤俊輔(博文)が、自ら愛用の忍者刀を天皇に突き刺し殺害した後、隊士と共に悠々と堀河邸を立ち去り、待機させておいた英国艦に乗って引き揚げた。 (便所は中二階式になっており、落下してくる排泄物を大きな箱で非人が受け止め洗浄する仕組みになっていた。当時、非人の代わりに伊藤博文が潜んでいたわけだ。) こうして孝明帝が無くなると、翌3年正月9日、孝明帝の子の睦仁親王が新天皇として踐祚した(16才)。 ところが親王は、以前記したように以下のような資質の持ち主で、>大室寅之祐の明治天皇と京都明治天皇睦仁は正反対の性格と体格で誰でも一目でその違いがわかった。官僚と政治家の情報独占がこのような事件を可能にしたと言えよう。
    当時、公用で出張する伊藤博文のために英国艦隊のキング提督が軍艦乗り込みの許可証を与えていた、といわれている。 藩政府も「林宇一(伊藤の変名)を英国艦隊乗組仰付らる」という辞令を発して支度金として300両を与えていた。 実際、英国艦一隻が常時馬関港(下関)に停泊しており、伊藤たちを運んでいたという。  (2へつづく)


    近代天皇制は海賊某の孫大室寅之祐を明治天皇にすり替えた長州の大陰謀で成立した  (2)
    =最新更新版=       

    前田 進  jcfkp201@ybb.ne.jp

    筆者による歴史的評価はこの頁後半を参照。

      以下に地家康雅(じけやすまさ)氏から送られて来たこの件に関する05年最新更新版を紹介する:

    大室寅之祐=東京新明治天皇の出自と近代皇室について (つづき) 

    地家康雅
    (2005バージョンアップ 2005年6月26日作成)

                      (2)
    急死した民間研究者のメモを一部紹介します。彼は思想的には右のようです、ご心配なく。
    *孝明天皇毒殺説が定説
    南條範夫母方の祖父・土肥十一郎(号 春耕で閑院宮家の侍医)の実見談では、「慶応2年十二月五日夜半、御所で白羽二重の寝衣を敷き布団の上に横たえられた貴人の死体を検死。脇腹を鋭く尖った刃物で深く刺されていた。恐らく凶器は槍…。斜め下から上に向かって突き上げられた格好。その四0歳位の貴人を「お上」と断言。従って槍による刺殺説。
    *陸仁追放すりかえの伝承 
    大室寅之祐(南朝末裔で長州力士隊と入れ替え長州藩の忍者部隊)、指示者は伊藤。木戸も忍者。岩倉、三条、中山忠能、西郷、大久保も同意。
    *時期 大室寅之祐上京は、慶応3年3月から4月にかけて。六月二七日松平閑そう(鍋島斉正)京に入る。明治四年の条に 「四月大阪行在所にあり、同十七日天皇東本願寺に幸す。木戸(桂小五郎)天顔に」。『防長回天史』。鍋島(情報係は江藤新平だけでなく宮中にもホットライン)により教導され仕上がる。
    *大室について  田布施町麻郷が生家。田布施町の大室近祐氏(平成八年田布施町麻郷で永眠)は次のように語った。「祖父は明治天皇によく似ていた。わしの家は南朝の末裔で、明治維新の時、七郷がしばらく滞在していた。祖父の兄寅之祐は、後京都に行って明治天皇になった」。 私自身はあまり関心がありませんが、議論の材料として紹介します。
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    大室家の人々の篤くべき証言 (内容が少々重複します) 
    大室近祐翁が逝ったあと、大室家には二人の媼が残された。一人は麻郷奥の前田家から嫁いで近祐翁と苦楽を共にしてきた静江(大正12年生)夫人と、いま一人は近祐翁の妹ヒサ子(明治44年11月18日生)さんで当年94才、故あってずっと大室家で暮らしてきた方である。この二人の媼が大室家と近祐翁にまつわる思い出をぼつりぼつりと話してくれるのだが、その中にはなんとも驚くような証言が含まれているのでそのあらましを解説する。
      実際、大室弥兵衛の長男は、大室寅之祐であって(地家家の壬申戸籍では寅吉)(大室家の壬申戸籍には寅吉の記載がない)、文久三年八、九月、七卿が大室家に滞在したとき、三條実美らはこの寅吉(寅之祐)を掌中の珠のように可愛がり慈しんでいたという。 そのため3学年年下の次男庄吉は、別府村の高城家に預けられて別居することになった。この庄吉が実家の大室家に帰ったのは、慶応二年一〇月、伊藤俊輔が寅吉を萩の杉家(松陰の実家)へ連れ出した後のことであって、翌3年 3月下旬、寅之祐が「玉」として上洛した時、庄吉は満一四才であった。
      これがもし戸簿謄本に記されている通りの生まれ年としたら、兄寅之祐の行方について、郡の大庄屋時政藤五郎ら宰判所役人の取調べを受け、しぶとくしらをきり通した時、一七才ということになるから一人前の青年扱いされて、とても命はなかったであろう。だが実際には一四才であったから、「少年だから命は助けよう」ということになって実家に帰ることを許されたのである。
    一、慶応三年一〇月下旬、睦仁に変身した寅之祐が女性に化けて、芸者風に 装った女官たちを引連れ、西郷らと共に麻郷の大室家に帰ってきた。その中に後に東京明治天皇(大室寅之祐)の皇后になったはずの(奇兵隊)一條勝子もいて、大室家に滞在中いつも寅之祐の側にべったりであったという。(だから奇兵隊一条勝子とこのころ京都の准后御殿に避難したほんものの一条勝子とは別人) この勝子は寿栄姫ともいったが、性慾も独占慾も強くて、 寅之祐の行く所へは何処までもついていった。しかし彼女の子宮には欠陥があったのか、性力旺盛な明治天皇といくらセックスしても子が出来なかった。そのため異常に嫉妬心を燃やし始めた勝子は、多くの側室に子供が生れると直ちにくの一忍者を使い、幼児の鼻口にぬれ紙を当て次々に殺していったという。 天皇の側室は、二八人居たといわれ、その間に皇子、皇女は一九人いたが多くは二才までの間に死亡している。 明治一二年、天皇の子を身寵った(実は大隈重信の胤)権典侍柳原愛子は、勝子に知られることを恐れて、病といつわって実家の柳原光愛邸に帰り、八月三一日無事男児を出産した。 この皇子がのちに大正天皇になった嘉仁親王である。
    一、明治二〇年ごろ、柳原愛子が立派な駕籠に乗り、お供を数百人も引連れ美々しく行列を組んで麻郷にやって来た。愛子は大室庄吉を呼び出して石城山へ登る道案内をさせた。 
    ◆大室庄吉の子供たち
    長男 儀作(明治19年11月23日生)
    長女 モト(明治 4年 1月 8日生)次女 タカ(明治 8年11月24日生)
    三女 ツネ(明治11年11月1日生)四女 ヨネ(明治14年10月24日生)
    五女 ツユ(明治17年6月28日生)次男 音吉(明治22年 9月26日生)
    一、昭和五八年(一九八三)、東京から数人のお供を連れた某宮様(高松宮か)が大室家にやってきた。この人は髭をはやした立派な紳士であったが、近祐翁と懇談しているうちに次のような打明け話をしたという。今上陛下(昭和天皇・裕仁)の子とされている明仁親王(一九三三年生)は、実は陛下のお子ではない。明仁親王が五、六才のころ血液検査をして調べ たところ、天皇裕仁の子ではないということが判明した。おそらく崇仁親王(三笠宮)のお子であろう。もう一人の正仁親王はどうも徳川の血統のようだ。だから、「陛下はご自分が死ぬるまで譲位はしないご意志である」と語った。
    その時たまたま近祐翁の次男明美(いま改名して弘樹・1948生)の長男貴雄(当時幼稚園児)が庭先で活発に遊んでいるのを、横目でじ-と見ていた宮様は、 突然、「この児を天皇家に養子に貰えないだろうか」と言いだした。
    近祐翁が、「どうしてか」と聞くと、「明仁は生来愚鈍でわやだから見ちゃあおれん、宮中でもどうにかしてくれという意見が多くてこまっているのだ。この児(貴雄)のような良い子を連れて帰れば、陛下もさぞかしお喜びになるだろう。私が責任をもって継嗣にするから、是非東京に連れて帰らせてくれ。実はこのようなこともあろうとかと、陛下の内諾も得て来ているのだ。是非是非頼む」と平身低頭した。なるほど、その頃の貴雄ははた目にもとても綺麗で利溌な良い子であったから、宮様が慾しがったのも無理はない。また明治天皇(大室寅之祐)の弟・大室庄吉の玄孫を天皇家に入れても血統上おかしくはない。筋の通った話である。そこで近祐翁は、別室に家族一同を集めて慎重に協議した。みんなでいろいろ話し合った 末に、「天皇家に入ると家族団らんの楽しい生活は期待出来なくなるだろうし、 毎度の食事も一々検査せねばならないような恐ろしい所へ、可愛いい孫をやる訳にはいかん」という結論になって、この話を断わることにした。だが、この話を断わるについて、大室家の人々には次のようなつらい思い出があったのである。
      近祐翁には三人の弟と三人の妹がいたが、そのうち将来を期待された二人の弟と一人の妹が、天皇家のために戦争の犠牲になっている。それも単なる戦死ではなくて、明らかに意図的に殺されたとしか思えないような死に方であった。明治天皇=大室寅之祐説はトンデモで、鹿島氏のデマと言われますが この本の殆どが何かからの引用なんです。鹿島氏もここ迄集めたと感心します。 鹿島氏の都合のよい内容だけを引用している可能性ありますが、引用部分に限ればはでっち上げではない様です。 自分は鹿島氏の信者ではありませんが、執念ですね。
    鹿島本の引用要約
    ・将軍家茂・孝明天皇暗殺?の謎  毒殺説 → ねずまさし/「孝明天皇は病死か毒殺か」  刺殺説 → 南条範夫/「孝明天皇暗殺の傍証」(閑院宮家の侍医の証言)  他 アーネスト・サトウ
    ・睦仁親王の暗殺/南朝後醍醐天皇の末裔、大室寅之祐と入替えの謎→三浦芳聖/「徹底的に日本歴史の誤謬を糾す」(三浦芳聖と田中光顕との対話)→ 松重正/「大室家の人々の驚くべき証言」 → etc...
    ・明治天皇の変身ぶりについての謎→中山忠能日記→蜷川新/「維新史にこれだけ裏がある」(討幕の密勅とは逆の親書を三条家で発見)→ etc...
    ・纂輯御系図の謎(さんしゅうおんけいず・北朝のルーツに当る貞成親王を「父不祥」 と記載。有栖川を総裁に任命。明治10年元老院発行)→長島銀蔵/「皇統正史」・明治天皇の奥さんが何故に昭憲皇太后? →原敬/「原敬日記」個人的に次ぎの項目を加筆すると鹿島本の続編ができそう。 大いにもり上げましょう。
      1)有栖川宮家最後の嗣子、栽仁親王急死で司法解剖の謎 2)有栖川宮熾仁親王の息子、出口王仁三郎・大本教弾圧の謎3)旧官弊中社に南朝の皇子、旧別格弊官社に南朝の功臣が多く祀られている謎 4)明治神宮の神社紋の謎(明治神宮の祭祀はだれ??) 5)踊る宗教と神道天行居など多くの宗教本部が石城山麓に集まってる謎(226事件前に石城山の神社に集まった将軍たちはだれ?他はだれ?)
    その他情報
    俺の爺ちゃんが天皇の医療団の一人だったのだが、当時の天皇(つまり明治天皇ね)から色々と品を頂戴したのだけど、その中に「長 ●●●家系譜」(●は塗り潰されて分からない)と言うのが有るんだ。透けて見ると「大」の文字が最初にくるので、こちらで話題の大室家の系譜かも知れない。どうせ嘘だと言われるでしょうけど・・

    ◆長州大室家系譜?
    Q. 大室と先生の弱点は大室寅之祐の父、大室弥兵衛から南朝光良親王迄の大室家の家系図が欠落してる点で、もし宜しければ詳しく教えて下さい。
    A. 私には価値がよく分からない。本物かどうかも分からない。そもそも、天皇から拝領と言う事すら眉唾もの。ただ、天皇からの拝領品の中に一緒に収まっていただけなんです。他にも山県有朋やら伊藤博文やらの手紙も幾つか有りましたけど、こちらは公共の機関に譲渡しています。 系譜は江戸時代初期詳しく言えば初代「麻郷某」死去年(1616年)からみたいです。ただ、文政年間(大室)から幕末にかけては故意かどうか削除されています。一応、幕末の記録帳に、「長 大室虎(ママ)之祐」と書かれている様です。昔の字体だから、よく分からないです。こう言った史料は何処で見て貰えば良いの?(初代の頃は「大室」では無い違う苗字になってます。)
      やはり、旧字体ですから何と書かれているのやら。ただ、南朝云々と言う話があるそうですが、初めの由来書?(「由緒書」と大文字で書かれています)には、南朝後○○天皇ノ●●●(中略)忠臣北畠師親息女●●●(中略)ト光良親王ハ敵地に進ム。(以西ハ北朝ナリ)消息知レズ。系譜ハ元和弐年ノ始祖「麻郷(後ニ●●ト改メ)」ヨリトシ、後裔ノタメニコレヲ残ス。(OOはここだけ旧字体なので分かりません。●は削除されています)
      この事?ですか???(「鹿島昇」先生の本より)この時、96代後醍醐天皇が北畠師親の娘源親子に生ませた王子・征東将軍宗良親王の曽孫、光良親王も城内に居たが、師成親王と共に乗船して周防へ下向した。船内には熊毛郡の住人で余田村(柳井市・・・・系図はその後も続いていますが、うーんどうなんでしょう。書いてあると申せば書いてある様ですし、無いと申せば無い共。兎に角、読み辛いのです。しかし、「長 大室虎之祐」の隣には、「省(ママ)吉」(国賊ノ名ヲ改メ)とあります。こちらも横枠にごちゃごちゃと書いてありますが、読めません。
      先程、父に聞きましたが、正確には天皇からの拝領物では無く、曾祖父が医師を辞した時、伊藤博文(?)から長年の功績に報いて色々な品々を頂戴したそうで、それは天皇の御意志でもあったそうです。それと系図については、曾祖父がさる高官から命じられて作ったそうです。それが不要の長物となったので、返却されたと言う話です。その時に「処分する様に」と言われたそうですが、折角の記録で有るからと一緒に締まっておいたそうです。この事は先程聞いて初めて知りました。
    私は日本史に疎い方でして、皆様より関心の度が無いのです。お話から歴史の裏の部分を証明する資料なのかも知れませんが、私には蚊帳の外の話しでして。叔父からの話でも、「昔は天朝様にお仕えしており色々な物を下賜して下さった」と言った程度の話しか聞いておりません。資料についても色々と考えてみますね。それと横枠に朱字で、 「故アッテ抹・・・(中略)●●ニ京●●●●●家ノ●子トナ・・・」とやたら長く文章が書いてあります。(●は読めないだけで削除文字ではありません)。
      追加((年号)ニ京闕生名倭人家ノ養子トナル>>作蔵の妻が長男虎吉、次男省吉、幼い二人の子を引き連れて、作蔵と離婚。後、作蔵の元妻が大室弥兵衛と再婚。つまり寅之祐は「地家」家から大室家(京闕生名倭人家)の養子となった訳。)書きたいのは山々なんですが、私には読めません。
    系譜の最後に、「明治三十二年六月 改  ●●●●●」(●は自分の曾祖父の名前なので削除します)と書いて有るのは読めますが、どうやら表紙など一部を改めらしく、内容の殆どは昔の字体です。素人の自分には読めません。大室と言う姓ですが、他にも記してあるのかも知れませんが、幕末の大室さん以外は分かりません。正直見てみないとわかりませんよ。滲んでいますので。ただ、「虎(ママ)之祐」と言うのは間違い無く書いてあります。
    他にも朱字で書かれている箇所がありますが、そちらの方が詳細に書いてあります。後、この後も大室家系図は続いています。此処から派生して色々な系譜となっているみたいです。一応、自分が受け継ぐ事になっていますが、まだ親父の物なので公開については相談してみますね。  
    その他1400年、南朝系の皇子光良親王が大内弘茂に連れられて麻郷にきた時、周坊はこんな
    状況だった。
    大内義弘(弘茂の兄)は幕府の依頼により南北朝の和解を周旋した。義弘が南北朝の間を取り持ったのは、彼が南朝の徒党と近い関係に有るのを見込まれたからである。南北朝末期や室町時代の南党は土地に固着しない賊党的乃至海賊的稼業を行って渡世する外無くなり、南大和の天険に出入りしながら広い連絡を各地と保った様でる。当時、内海の海賊も漸く大内氏の統御に入りつつあり、明徳の乱(1391年)後は、紀伊・和泉の賊党も同様の関係に入って来たのでる。南北朝の合一も、大内氏の豪強も、その不可解と見られる反幕的画策も、共にこうした反逆児的な南党と結びついた因縁を無視出来ないと思われる。(福尾猛市郎『大内義隆』日本歴史学会編)
    各藩の幕末の玉
    尾張家の「玉」は桂宮家分家の広幡氏。
    水戸藩の「玉」は有栖川宮。
    長州藩の「玉」は山階宮。
    島津藩の「玉」は中川宮なれど、朝廷、幕府、さらに明治政府も翻弄した「悪玉」。
    紀州藩の「玉」は北朝では伏見宮家。南朝では浅利氏。
    徳川幕府の「玉」が日光宮こと東武皇帝
    高松八幡宮で王政復古の大号令が発せられたと言う鹿島説は本当の事。(昔、爺さんに聞いた事有る)それと何処だか忘れたが島津久光の軍が進駐した場所も麻郷に有った。西郷隆盛や三条も一時宿泊し、滞在した跡が今も残っている。
         ----------------------------------------------------
    調査結果
      寅之祐の弟庄吉の長男儀作 次男音吉 儀作の長男近祐 近祐の長男照明 次男弘樹 弘樹の長男貴雄。近祐の息子徳川(大室)恒孝、庄吉の娘ヨネ、ヨネと橋本卯太郎の間の子橋本龍伍、ヨネの胤違いの息子和田恵三郎、和田恵三郎の娘迪子。以上  
     (天皇家)光格天皇の弟 仁孝天皇(真実は光格天皇と仁孝天皇は兄弟ですら無い)
     光格天皇の息子孝明天皇か?慶子が流産した明治天皇1 替え玉京都明治天皇2 大室寅之祐の明治天皇3 大隈重信の息子大正天皇、昭和天皇 秩父宮(二人とも母は貞明皇后、父は大室寅之祐明治天皇) 高松宮(母、松下トヨノ、父は大室寅之祐明治天皇)東久邇宮稔彦の息子三笠宮崇仁。(母は貞明皇后 )
    三笠宮寛仁 桂宮は三笠宮崇仁の息子。(北朝)(ただし高円宮の実父は細川護貞)
    (大室は南朝)
    以上情報を整理すると松宮が昭和58年8月に田布施町に居た事が証明されれば、大室=明治天皇の疑惑は一気に高まると断定して良い訳だな。そして、その真偽を知っている者は、当時の宮内庁職員、田布施町役場職員、及び政府首脳。此処迄、情報は狭められた訳だ。(大室ヒサ子さんは麻郷の大室家に高松宮が2回きたと証言)。橋本の家の系図誰か教えて 
      大室寅之祐の弟、大室庄吉の女(むすめ)大室よねが、サッポロビール常務 橋本卯太郎の家に居候して女中になる。此処からが、始まり始まり。既に卯太郎には本妻真都(マツ)の間に4人の男の子と1人の娘が居た。明治39年、卯太郎が大室ヨネにお手付きして出来た子。それが橋本竜伍。(5男だから竜伍。竜伍の下に1人の弟と1人の妹あり)龍伍は東大を主席で卒業した後、吉田内閣で大臣3回経験。龍伍の長男が橋本龍太郎。
      話を整理してみる。(ややこしいので)
    1、大室明治天皇と松下豊子の間の子が高松宮。
    2、高松宮の双子の妹(山本静山尼)の方はやはり父大室明治天皇、母松下豊子。
    (だから山本静山尼は高松宮に似てる)静山尼は戸籍では高松宮より10歳年下になっているがこれはウソで宮と同じ年。尼は5歳にして入山し、8歳の時得度、23歳で第十世門跡。しかしこれはウソで高松宮日記より、15歳まで、宮中で「やすこ」という名前で生活していたのである。だから宮の日記から、この書き方から山本静山尼の存在をずっと以前から知っていた。5歳で離ればなれになった妹のことなんてほとんど記憶にないから。つまり尼は15歳にして入山し、18歳の時得度、33歳で第十世門跡。79歳ではなく89歳でこの世を去った。(もちろん奈良県で)山本静山尼の息子が千宗室。
    3、さて、話は変わって今度は三笠宮崇仁の話。九条節子皇后と東久邇稔彦の間の子が三笠宮崇仁。で三笠宮崇仁の隠し子が三笠宮晴子さん。今現在も京都に在住。三笠宮崇仁の双子の妹は糸子とよばれていた。(京都で)
    4、大正天皇(リベラル)の母は柳原愛子だが父は大隈重信(リベラリストおよび反薩長の)。原敬が暗殺され大隈が病気にかかり大正11年には死亡するが大正10年に昭和天皇が摂政として即位。このころから(大正10年)大正天皇の権力が弱まり、昭和天皇の権力が増大した事からも考慮。
      高松宮日記ですがここに出てくる尼さんは三笠宮の双子の妹ではなくて高松宮の双子の妹と考えて間違いない。自分の日記に北朝の(まったく血筋の違うアカの他人)人のことが書かれるわけがないから。同時に大正天皇に関してですが、原武史の大正天皇と言う本を読めばわかりますが、昭和天皇、秩父宮、高松宮に関しては明治天皇を中心とする勢力が書いた書によく出てくるんだが、三笠宮崇仁と大正天皇はほとんど出てこない。三笠宮崇仁がキゲンが悪くなって怒ったのはこのことで、ようは血統が違うから。
      大正天皇も明治天皇の子ではない。子供の頃も成人してからも大正天皇のところへ明治天皇がほとんどあっていない。自分の父(孝明天皇?・)を殺した岩倉が風邪をこじらせ自宅で寝込んでしまったとき、明治天皇がわざわざお見舞いに行くため、岩倉家にわざわざやってきたほどなのに。
    >>明治10年頃の宮中の勢力分布は岩倉派と大隈派とで熾烈な争いがあった。
      中丸の真実のともしびを消してはならないを読めばわかりますが、当時、大隈重信派と岩倉派が政治を二分していたそうだ。大隈派の方が力があって岩倉派の堀川辰吉郎(実は岩倉具視の息子が堀川辰吉郎)は宮廷を追われてしまった。そう、堀川家とは岩倉のぎりの妹、堀川紀子の「堀川」か???。だから堀川辰吉郎は岩倉と追放された千種任子につかえた女官「千草」(43歳で死去。)の間の子で千種任子(88歳で死去)の方はなるほど、宮廷を追われていなくて69歳までつかえていた。
    >>だけど千種と千草が二人いたとはすぐには信じられないのであるが。
      このへんが中丸の証言と食い違いを見せるあたりで千種任子(88歳で死去)は、辞官し、移り住んだ先は京都の堀川御所ではなく東京新宿区砂土原町なわけです。そこで88歳まで生きた。千種任子のどこを調べても「堀川」御所なんて出てこないわけです。
    だから岩倉と堀川御所を追放された「千草任子」(43歳で死去。)の間の子が堀川辰吉郎といえる。
    一部紹介します2ちゃんねる 日本史板「大室寅之祐が明治天皇になったと言える勇気を持とう(復
    活版){このスレ開いて>>1にあるURLをクリックすると880レス読めます。}」と「大室寅之祐が明治天皇になったと言える2」を読んで見て下さい。内容は衝撃的で、橋本龍太郎の祖母の父、大室庄吉の兄大室寅之祐が明治天皇になったと言うもので、2000年8月出産予定の雅子様懐妊、流産の真相は実は橋本龍太郎の長男橋本竜の長男を雅子様、皇太子さまの間の子とし、こっそり養子にしようとして失敗した…等凄い事が書かれておりマスコミタブーも有って衝撃的でした。一度目を通して見て下さい。
    >> じゃあ、明治天皇は130年以上も前の話だから、一度余所に置いといて、2000年8月出産予定の雅子様ご懐妊、騒動は何だよ。 TBSの報道番組(ザ・スクープ)で産婦人科医が出て来て、「妊娠4週目でレントゲン検査して胎児の姿が確認出来ず。(公式な宮内庁発表)と言う事は、有り得ない。雅子様は妊娠しておられ無い!!」と泣きそうな顔で話していたのを、テレビで観たぞ!! 一説には、橋本龍太郎の長男、龍の長男を雅子様、皇太子様の間の子と言う事にし、株価上昇に利用しようとしたが、雅子様が余りにも嫌がられるので失敗したと言われている。この情報の出所は、何と宮内庁では無く、首相官邸と言うでは無いか!!! 当時、小渕は「2000年8月に太陽が、二つ昇る」と言った事は、有名だけど一つは景気の回復。もう一つは、??? 小渕が橋本と共犯で、雅子様ご懐妊騒動仕掛けたと伝えられるが???? もしこれが事実なら、大変な事だぞ!!
      橋本は大室と遠い親戚だから、佐藤栄作に自民党公認にして貰って26歳の若さで初当出来たと言うじゃないか。
    >>大体、2000年8月の出産予定、御懐妊騒動って何だ?
    >>そりゃそうだろう。雅子様もまさか自分が妊娠もしていないのに、2000年8月に自分の子供が生まれて来るなんて夢にも思っていなかったのだから。(小渕発言後、自分が2000年8月に子供を出産する予定になっていた事を知って、雅子様は部屋に引き籠もり成され、皇太子さま以外の人間とは口もきかなくなって、人間不信になられた一連の騒動の事。)
    ◆何故、今、皇室は大室でなければいけないのか?
    熊沢家は今の当主が確か娘2人で実質断絶に近い状況にあるし、今の皇室見ると、常磐会を中心とする、島津家および久邇宮家と大室寅之祐東京明治天皇を中心とする南朝大室天皇家(寅之祐の弟庄吉の子儀作の子近祐の子徳川恒孝の子皇太子さま)と2つある。此等に自民党の権力が複雑に絡み合っているからさ。
      政府自民党の支持基盤は3つあって1、郵便局、2靖国、3医者なんだけど、3の医療会の票田を作ったのが武見だったり厚生族の橋本龍伍だった。(大室寅之祐東京明治天皇の弟大室庄吉の娘大室ヨネと橋本卯太郎の間の子が橋本龍伍)2の靖国及び神社本庁のボス(つまり自民の票田)は村上正邦だったが、歴代総理が靖国万歳なのは明治天皇を奉る事で靖国の票田を自民党が押さえると言う意味合いも有る。(つまり、遺族会の票田)自民党に右翼が多いのはその為で、突き詰めたら大室明治天皇の血統が130年以上続いているから、熊沢家を奉じても何の得にも金にも成らん。だから北朝の孝明天皇に触れる事は出来ても南朝の明治天皇の歴史に触れ難い。明治天皇の息子が昭和天皇でなくなってからまだ14年しか経っていないから明治天皇の歴史はそれ程古くないからとも言える。
      さて、橋本龍太郎の頂上作戦の話をしなければいけない。先、書いた通り橋本龍太郎の父龍伍は大室寅之祐明治天皇の姪、大室ヨネの息子であるから本質的には南朝なのかも知れないが、大室ヨネが女性で有るから橋本天皇(半分南朝、半分北朝)とする。で、今、日本を裏で実質的に動かしている5悪は、1.曽野綾子 2.正田巌(日銀を影で動かしている男美智子様の兄、(弟?) 3.美智子皇后 4.橋本龍太郎 5.橋本久美子だが、今上陛下はまだ17年しか経っていないので権力はそれ程無い。浩宮も権力はそれ程持ってない。議員歴42年の橋龍こそバリバリ権力持っていて、常に雅子様の御懐妊騒動を引き起こした主犯がこいつ。
     (続き) 一度目は皇太子さまが結婚なされて3年目の1996年、丁度、橋本内閣の時、自分の孫。(橋本龍太郎の2女厚子の子か?)を養子にしようとして失敗。この時はマスコミに公にはならなかった。それより前に自分の娘長女の寛子を皇太子さまと結婚させたかったが、その野望は失敗した。(皇太子さまも寛子もお互い反対したから)二度目は2000年8月に雅子様が子供を生む予定で流産したが、(小渕内閣の時)この時は長男龍の長男(2000年8月生まれ)を皇太子さまの養子にしようとして失敗。雅子様が公の場に出てこなかった。
      三度目は先ず、橋龍の娘隠し子の和子が妊娠した。これが橋本と小泉の総裁選挙の少し前位の時。これに合わせる様に皇居に人工受精の装置が運び込まれ、南朝大室浩宮(小泉・森派・安倍・岸派を中心とする自民党右派(右翼)のタマ)のおたねを某女(雅子様の妹か?)に人工受精させ、今度は北朝今上陛下(宮沢派・河野派・吉田・麻生太郎─三笠宮(信子)秋篠宮・今上北朝派)のおたねを使い某女に人工受精。
      で、浩宮の胤で人工受精した女は先ず、女の子を孕む。だ・か・ら小泉を中心とする右派(右翼)から皇室典範の女帝改正論が急に勢いずく。しかし、この女が流産したから右翼から女帝論が急速にトーンダウンする。(このとき堤教授が解任された)北朝今上派としたら今上が那須に行って東京に帰って来た所で、男子が誕生すると言う計画で、麻生太郎が「皇位は男子に限る」と言ったのはその事。イギリスのマスコミに今上の胤使って某女に人工受精して男の子を孕んだとの情報が漏れる。
      一方、橋本の娘和子は女の子を妊娠しこちらが先行した。12月の最後迄、女の子か男の子かともめていたのは北朝三笠宮天皇今上一派(麻生)と橋本天皇の頂上対決でマスコミも男の子と言う事で準備してた。12月に入って少し長引いて最後に橋龍の権力によって和子の娘を愛子とした。浩宮は、部屋のドアを怒って蹴って出て行かれたと言う。最後に小泉が「女帝は慎重に検討する」と言い出し、みんなが唖然とする。つまり後ろ向きな発言に変化。
      佐藤・竹下・橋本派が敬宮愛子・岸・安倍・森・小泉自民党右派(ウヨ)が南朝浩宮支持、吉田麻生三笠宮秋篠宮・明仁・宮沢・河野麻生派が今上陛下派、と考えたら分かり易い。小泉・橋本・麻生の3大決戦に皇室も巻き込まれていたと言う事。そして戦いはまだ続いて、今度こそこの3大勢力が、雅子様に男子を産むと言う事で凌ぎを削り、橋本派以外女帝改正には消極的であると言う。2~3年後か?に最終決着が付く筈だ。
    年次   事績
      天保8(1837)年9月29日 徳川慶喜(よしのぶ:幼名は七郎麿)、水戸(徳川)斉昭(なりあき)の七男として誕生。弘化4(1847)年9月 徳川慶喜、第12代将軍・徳川家慶(いえよし)の命により御三卿の一つ、一橋家を相続。嘉永3(1850)年1月10日 寅吉(後の大室寅之祐=東京明治天皇)誕生。
    嘉永6(1853)年6月3日 黒船(ペリー艦隊)来航。 6月22日 将軍・家慶薨去。徳川家定、第13代将軍に就任。
      安政5(1858)年 この頃、宮崎鉄雄の養父・敬治誕生。 4月23日、 彦根藩主・井伊掃部頭直弼(かもんのかみ-なおすけ)、大老職に就任。慶福(よしとみ)を井伊が推して将軍継嗣とし、将軍継嗣を争った慶喜は江戸登城停止処分を受ける。 7月16日 将軍・家定薨去。安政大獄が開始され、慶福は家茂と改名し、第14代将軍に就任。万延元(1860)年3月3日 桜田門外の変(井伊大老、暗殺される)
      文久2(1862)年7月1日 一橋慶喜、朝命により将軍後見職に就任。 7月6日 長州藩、長井雅楽(うた)の航海遠略策を放棄し、尊攘(尊皇攘夷)に鞍替え。慶喜をあてにして倒幕路線を進み出す。
      文久3(1863)年4月20日 幕府、朝廷に対して、5月10日を攘夷期限と上奏。 5月10日 長州藩、この日より馬関(下関)において、米・仏・蘭艦を砲撃開始(攘夷実行)。 7月2日 薩摩藩、薩英戦争に敗北し、開国に路線転換。8月18日 薩摩・会津両藩、幕府と連合して公武合体派クーデターを起こし、長州系尊壊派を追放元治元(1864)年1月 将軍・家茂が老中と共に薩摩藩の開国論に反対し、上洛して壊夷を主張。慶喜も変節、これに賛成、中川宮邸において、島津久光(薩摩藩)・松平慶永(福井藩)・伊達宗城(仙台藩)と口論し、参線会議が解体。慶喜、将軍後見職を辞して禁裏御守衛総督を拝命。(しかし、慶喜は慶永と共に密かに将軍家茂の暗殺を計画。この後、薩摩藩も孝明天皇を暗殺しなければ、開港不可能と考え、横浜鎖港を通告された英国もこれに同意したと思われる) 。7月19日 蛤(はまぐり)御門の変 。7月24日 第1次長州征伐(征長の役)。 8月5日 四国(列強)艦隊、馬関を砲撃。
      慶応元(1865)年5月10日 英国公使パークス、木戸・井上と会談。 8月 伊藤博文・大室寅之祐(当時寅吉)等が長崎のフルベッキの下へ行く。(翌慶応2(1866)年1月頃、記念写真を全員で撮る?) 。
      慶応2(1866)年1月12日 薩長同盟成立(敗北者同志の同盟)。 6月7日 第2次長州征伐開始。慶永はしきりに反対するも、慶喜はこの戦いで大室寅之祐に関する支配権を求めた(鹿島説)。 6月17日 英国公使パークス、島津久光・西郷吉之助(隆盛)等と会談。 6月20日 将軍家茂、第二次長州征伐で大阪に到着後、朝廷差向けの医師と称する者に毒殺される。(大坂城内に引き込み役がいた筈であるが、犯人は慶喜・慶永らしい)。
      10月頃 寅之祐(当時は大室寅吉)、行方不明となる。(田布施町麻郷の村人が手分けして探索) 12月25日 孝明天皇、堀河紀子邸において、伊藤博文に刺殺される。岩倉が便所の箱番を買収しておいた。
      慶応3(1867)年1月9日 睦仁親王、践祚(京都明治天皇)。幕府、大量の軍艦・輸送船を購入。横浜で歩兵・砲兵・騎兵の訓練を開始(約5000人)。幕府に金がなくロッシュ公使を通じて仏国から生糸輸出権を抵当として借款を受ける。将軍慶喜、内政・外交全般にわたって、ロッシュ公使の助言受ける(通訳は渡辺歌女)。 3月頃大室寅之祐(当時寅助)が『萩』から京都へ上洛。 6月16日 島津久光、山県・鳥尾に対して、西郷を萩に行かせると約束する。 6月23日 大室寅之祐(当時、寅助)の教育係・鍋島直正が入京し、寅助(寅之祐)を半年余教導。 6月24日 仏国公使ロッシュ、小笠原長行と会談。 6月25日 英国公使パークス、小笠原と会談。7月、中山慶子5ヶ日の宿下がり(『明治天皇紀』)。10月13日 薩長両藩に倒幕の密勅が下る。将軍慶喜、朝廷に対して大政奉還を上奏。坂本竜馬と中岡慎太郎が、伊藤、山縣、井上馨等に暗殺される。王政復古の声と共に全国的デモ「エエジャナイカ」始まる。
      その人数は500万人と言われる。 10月下旬、 寅吉が寅之祐と名をかえ芸者連れて田布施町の麻郷に帰ってくる。通史にある王政復古の大号令(12月9日)とは、田布施町麻郷の井神(地家の隣の)の高松八幡宮での事で、三条実美(さねとみ)も同席。 (午後の小御所会議も同様)
    慶応4(1868)年明治元(1868)年 1月13日 鳥羽・伏見で幕軍2万と薩長軍4
      千の兵が戦うも、薩長軍の「錦旗」により(もちろん幕府軍の方にも錦の御旗たっていたが)、幕府側は戦意を喪失し惨敗。
      1月15日、正式に大室寅之祐が「明治天皇」として京都御所に向かい入れられる。(それまでは、上洛した時京都薩摩藩邸で寅之祐待機)三条等、勤皇派の公卿等も京都御所に復帰) 。「奇兵隊の天皇、来る正月上中旬内に御元服」と言う手紙を引用(『明治天皇紀』)。『中山日記』に「寄(奇)兵隊の天皇」とある。大室寅之祐(東京明治天皇)が正式に明治天皇となった。 4月1日 アーネスト=サトウ、「睦仁(大室寅之祐明治天皇)」に会う。(京都・(大室寅之祐)睦仁東本願寺にあり。誠
    に御強壮(『木戸日記』)
      (慶応4(1868)年)大政元(1868)年 6月15日 輪王寺宮公現法親王(後の北白川宮能久親王)、諱(いみな:本名)を陸運(むつとき)と改め、奥羽越列藩同盟(北日本政府)の「東武皇帝」に即位。慶応4年6月15日を以て、「大政」元年と改元。8月に慶喜と中川宮(1863年にすりかわった水戸斉昭の息子の中川宮朝彦)が大室寅之祐明治天皇新政府に対しクーデター計画したが失敗。

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    [論評]     前田 進

     上に紹介した新しい真相暴露の情報からして、天皇家の血統は北朝系も南朝系も途絶えていることが分る。北朝系の実体は足利系である。
     さらに、薩長は北朝系(公式発表)の孝明天皇を殺害したあと、南朝系と判断したものの実は海賊某の孫だった、勇壮・頑強で左利き、疱瘡でアバタ面、達筆だった大室寅之祐を、孝明天皇の殺害された(別の説:比叡山へ僧として追放された)息子で、女官らとの遊びに余念の無いひ弱で右利き、種痘で顔にあばたがなく字が下手だった「攘夷・佐幕=親徳川」の息子睦仁とすり替えた。そしてその大室寅之祐を明治天皇にでっち上げて絶対主義的天皇制の権力に就けた。だから現在の天皇家は南朝系の天皇家とも血統がなく、虚構の天皇家である。-まだ究明が続行されなければならないが、ひとまずそうした結論になる。
    明治維新は、英国の経験に従って「大政奉還・薩長同盟」の戦略論者だったロスチャイルド支配下の英国フリーメーソン(下から3番目の第3階位)の商人(大手商社ジャーディン・マジソン社代表)、トーマス・グラバーが、英国大使パークスとの協働で坂本龍馬、伊藤俊助(博文)、桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作、小松帯刀、五代才助らを指導、支援して実現した。
     グラバーの進言でパークスが指導して勝海舟と西郷隆盛の江戸城無血開城が実現した。
     坂本龍馬の「船中八策」と「新政府綱領八策」、それに従った明治政府の「5ヶ条の誓文」はグラバーの指導の成果だった。明治政府は国辱を認めず、面子を重んじて控えめに、グラバーに勲二等旭日重光章を授与した。
     明治維新の5年前1863年にフリーメーソンのマークを冠して新築された長崎のグラバー邸には、彼ら明治維新の志士らの名を挙げて、グラバーが彼らを庇護して明治政府の実現に力を添えた、と明記してあり、邸内屋根裏の隠し部屋がやっと現代の1987年に発見された。(参考文献:鬼塚五十一「世紀末666の大陰謀」廣済堂1992)
      こうして、フリーメーソンの指導と援助で明治の絶対主義天皇制が成立した。
    徳川慶喜は暗中模索状態で、王政復古を目指す薩長との妥協に走って、重職勝海舟のトロイの木馬的役割を許した。慶喜らは「大政奉還・慶喜首相」構想を提唱したが、英国フリーメーソンの指導と英軍艦の利用、銃砲支援を受けた薩長連合軍に力及ばず敗北した。慶喜はフランス・フリーメーソンの後押しで徐々に天皇制廃止・共和制樹立に目覚めたようで、維新後には、天皇を絶対君主とする明治憲法に対抗して共和制憲法草案を作成したが、後の祭りだった。
     その結果朝鮮植民地化、日本が宣戦布告なき卑劣な奇襲攻撃で始めた日清、日露戦争の勝利と、自由民権運動の弾圧、人民の搾取・収奪と暴虐支配で強行的な資本蓄積を実現して日本帝国主義が成立したが、日帝はやがて米英帝国主義と対立しながら中国侵略と太平洋戦争へと暴走して壊滅的敗北を喫した。
      太平洋戦争では「鬼畜米英撃滅!」が主要スローガンだったが、戦後は掌を翻すように、長期政権だった吉田茂が「日本はアメリカの妾だ」と言明して米国フリーメーソンに忠誠を誓った。戦前は日英同盟だったが、戦後は米日主従同盟になった。
      小泉もその路線を継続発展させて、米国フリーメーソンの代理人ブッシュらキリスト教原理主義のカルトでネオファシスト一派の「ネオコン」のグローバルな軍事戦略「先制核ハルマゲドン」* に日本を組み込んで、平和憲法改悪、米侵略戦争への加担路線で、売国・亡国の途へ進んでいる。
    *http://tanakanews.com/e0721secondcoming.htm
      ブッシュら米国の日本乗っ取りを目指す「年次改革要望書」に従って、345兆円の郵貯・簡保の国民資金を日本長期信用銀行(現新生銀行)と同様に米金融資本に乗っ取らせる郵政改悪で、小泉はフリーメーソンへの忠実を実証した。これは、吉田、岸以上の祖国への巨大な裏切りになった。
      だから先般の総選挙で日本人の多数が自民・公明に衆議院の2/3以上の多数を与えたのは、愚昧な自殺行為だった。自民党は、公明党の小泉靖国参拝反対を憲法改悪の障害と見て、民主党との大連立目標を公表して、執拗に亡国路線を推進中だ。
      日本の支配勢力が今日、フリーメーソンの世界的な地球破壊・人類破滅の邪悪な犯罪路線に従っていることは、本質上明治維新以来変っていない。その抜本的一新が日本の活路の一つとなる。

    初代天皇は亡国ユダヤ難民の侵略勢力リーダーだった
     12部族連合の古代イスラエルはBC928年に北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂した。そのあと、それぞれBC722年とBC586年にアッシリアと新バビロニア王国に攻められて滅亡した。そのスファラディー系ユダヤ12部族の第3部族第3支族の難民は、流浪の末2千数百年前に鹿児島南端大隈半島の大根占近くに上陸して日本を軍事侵略して、日向に本営を設けて北上、さらに東進して長髄彦指導下の五畿七道57ヵ国から成る古代日本国家「耶馬壹国」の大部分を占領支配した。
     その過程で天皇家の初代リーダーは、奈良の橿原で所謂大和政権を樹立した、このユダヤ人日本侵略勢力の族長で領袖だった。
      日本人は、侵略者を大王[おうきみ]、7世紀後半からは「天皇」の威圧的尊称で逆に崇敬させられて、支配され続けてきた。そうした国辱感と敵対意識が次第に薄くなった8世紀後半にやっと、占領支配者らは初代侵略軍リーダーを「神武天皇」と呼称した。彼らは侵略開始以来千数百年後の源頼朝時代にやっと、日本人が祖国防衛戦争を子々孫々代々続けた東北地方を征服、日本中を統一軍事支配できた。会津など東北地方の人民は、明治維新と2度抗戦して敗北したが、抵抗闘争の精神は脈々と受け継がれて生きている。
    官製皇国史観は、日本侵略を「天孫降臨」神話のでっち上げで隠蔽した。「作る会」の歴史教科書も、その点でも売国的なものである。その点で実際上曲学阿権に陥った歴史学会と、戦前からの共産党や左翼各派も、侵略を架空神話説で実際上隠蔽してきた。それらの歴史観と歴史書は抜本的に訂正と書き直しが必要である。  
    天皇家の血統はすでに途絶えているが、日本人は天皇制廃止によって初めて2千数百年の屈辱的な国辱から精神的・政治的に解放される。
    参照:http://www.yu.to/tatsmaki/index0.html
      
    強調する。東北日本人、とくに明治維新での会津藩の2度目の英雄的な抵抗戦争、戊辰戦争、北海道の函館五稜郭での戦いと玉砕などは、世界支配を目指したフリーメーソンの手先たる長州・薩摩の官軍による侵略に対する日本人民の輝かしい不滅の祖国防衛戦争だった。新撰組の闘いも、本人らには自覚と認識がなかったが、改めて高く再評価する必要がある。
     戦前は世界支配の総本山である英国フリーメーソンとの裕仁の日英同盟、第2次大戦後は、米国フリーメーソンの日本占領と属国支配が続いている。
     第2次大戦ではカトリック信者でヨゼフと名乗っていた吉田茂が、対米英開戦を決定した所謂「御前会議」の内容と決定を細大漏らさず米フリーメーソンの在京代表-米国大使に通報していた日本人最高機密のスパイ名「ヨハンセン」だった。裕仁は、吉田にそれを指示した売国容疑が濃厚だった(鬼塚英昭「天皇のロザリオ」上下:成甲書房、下pp402~403)。裕仁が戦後戦犯訴追をトルーマン米大統領の命令で免れ、吉田茂がマッカーサーのひいきで首相になったのは、それゆえだった疑いがある。
              
    宇宙管理界の1981年決定で天皇家は民間人化する運命にある。
    皇室典範会議の05.11.24の報告書が「女性・女系天皇容認、第1子優先」と発表したのは、それへの大きな歩みにもなりうる。しかし同報告の背景には、ブッシュとブレアらを代理人とし、小泉を通ずる米英のフリーメーソンの指導があるだろう。女性・女系天皇の場合、英国などEU諸国王室から婿取りさせて天皇家を乗っ取るメーソンの計画もありうる。
      地家やすまさ氏の証言によれば、サッポロビール常務の橋本卯太郎と、前記海賊の孫大室寅之祐=明治天皇の弟庄吉の娘で卯太郎家へ女中に入った大室ヨネとの間に出来た息子だった、橋本龍伍(吉田内閣閣僚になった)の長男が橋本龍太郎元首相で、彼の第二夫人の娘和子の娘が、皇太子浩宮と雅子の内密の養子にされた天皇位継承順位2位の愛子である。
      英国的な女王制にせよ、小泉がすでに事実上実証したアメリカ的な大統領制にせよ、いずれもフリーメーソンの金権支配体制である。そうした金権奴隷支配体制を廃絶する唯一の二者択一は、宇宙・地球管理界の指導下でのあらゆる生活分野での無償奉仕の社会への移行である。
     天皇は、第二次大戦後今日に至るまで続いている反動と革新の激しい対立の結果、実際には国民統合の象徴ではない。現行憲法第1条も自民党改憲案第1条も虚偽、虚構である。地家やすまさ氏の証言によれば、昭和天皇裕仁は大室寅之祐の息子、大正天皇は庶民のリベラリスト大隈重信の息子だった。南朝とも北朝とも関係ない部落民出身で長州によって明治天皇とすり替えられた大室寅之祐の息子だった昭和天皇は、日本最大の超金融独占資本家の寄生的な変種だった(鬼塚英昭「天皇のロザリオ」成甲書房06.7.20,上pp207~224)。
    もう1つの情報もある:
    http://alternativereport.seesaa.net/article/44522478.html

     今の天皇家は全員カトリック信者で、心はアメリカ人だと米国では見られている。
     これらの現実を直視して、そこから出発しなければならない。
    日本人が目指すべき途は、世界最初のエコロジスト安藤昌益が提起したように、縄文時代の原始共同体を螺旋状に上昇発展させて、フリーメーソンの世界支配の最後の砦-あらゆる悪事の社会・経済的土台たる貨幣制度を廃止して、宇宙の掟に従った地球、人間、動植物、人間同士の共生を可能にする万事無償奉仕の21世紀新人類社会へグローバルに移行する途である。

     まず自民党改憲案をまかり通してはならない。そして天皇制廃止を目指し、「人の上に人を創らず、人の下に人を創らず」の、真の万民平等、真の自由をもたらす万事無償奉仕の21世紀新地球社会の創造を目指すべきである。


    日本近・現代史の国辱
    有力な説: 近代天皇制は海賊某の孫大室寅之祐を明治天皇にすり替えた大陰謀で成立した
    ☆ http://blog.livedoor.jp/asdthkou/archives/14904964.html
    ☆ http://www.ma.megafit.net/~kt145/oomuro.htm

    憲法改悪自民党案と関連して、天皇制廃止の世論は草の根で高まりつつある。
    明るみに出た歴史的事実は語る:
    太田龍氏「時事寸評」の下記の3本の記事も有力な説として注目される:
    参照: http://www.pavc.ne.jp/~ryu/cgi-bin/jiji.cgi

     「大室寅之祐」は本当に南朝の子孫か
     太田龍 時事寸評 更新 平成17年10月22日00時37分
     平成十七年(二〇〇五年)十月二十一日(金) (第一千四百六十九回)
    ○長州藩が、南朝光良親王の子孫大室氏の大室寅之祐を明治天皇にスリ替えた、○と言う説は、故鹿島昇氏の三冊の著作に詳述されてあり、○更に筆者の新著「長州の天皇征伐」(成甲書房、十月二十日刊)にも、記述し、論評した。
    ○故鹿島昇氏は、大室寅之祐が南朝光良親王の血統である、と言う説は、その是非を問題とされることなく、それを「是」と前提として、論を立てられた。
    ○しかし、筆者は、その問題はずっと保留して来た。
    ○大室寅之祐の時代の大室家が、南朝から続いて居ると言う証明がない ○しかるところ、最近某氏の次のような情報に接した。○即ち、曰く。
     (1)大室寅之祐の父親は、大室弥兵衛(一八一三年六月十四日~一八七九年)
     (2)大室弥兵衛は、妻ハナとの間に子供が二人出来たが、二人とも早死した。
     (3)地家作蔵と興正寺基子(スエコ、スヘ)の間に、長女ターケ、長男虎吉、
        次男庄吉、三男朝平と生まれた。
     (4)作蔵とスヘは離婚。
     (5)長男虎吉と次男庄吉をスヘが引き取り、長女ターケと三男朝平は作蔵が引き取る。
     (6)スヘは、大室弥兵衛の二号と成り、
     (7)地家虎吉は大室虎吉、地家庄吉は大室庄吉と成る。
     (8)スヘは一八五五年死亡。
     (9)大室弥兵衛の血統は断絶し、大室虎吉、大室庄吉は実は、地家作蔵の息子。
     (10)大室虎吉がのちに、大室寅之祐=明治天皇と成る。○と言うのである。
    ○なお、地家作蔵に引き取られた三男地家朝平の子孫は、山口県田布施町に現存して居る、と。
    ○この説を「是」と仮定すると、どう言うことに成るか。
    ○大室弥兵衛以前については保留するとして、○大室虎吉=大室寅之祐は、地家作蔵の血統である。
    ○つまり、南朝云々、とは関係がない、と言うことに成るであろう。
    ○更に、「地家作蔵」。○この人物は、苗字も無い海賊某の息子。
    ○そしてこの作蔵が、地家吉佐衛門の養子と成り、「地家」姓を賜る。との説である。○この説については、今後、検証して行く。
     (了)
    ~~~~~~~
      長島銀蔵著「皇統正史」(昭和四十一年、自費出版)を発見する                  
     太田龍 時事寸評 更新 平成17年10月24日23時54分
    平成十七年(二〇〇五年)十月二十四日(月)(第一千四百七十二回)
    ○鹿島昇著「日本侵略興亡史」(絶版)の参考文献の中に、長島銀蔵著「皇統正史」、○と言う著作が挙げられて居る。
    ○これは、昭和四十一年十二月発行、非売品、とあり、○静岡県清水市在住の著者、長島銀蔵の自費出版である。
    ○従って、市販はされて居らず、○ごく小部数印刷され、著者の関係者に配布、贈呈されたもののようである。
    ○長島銀蔵。このひとは、敗戦後、日本国憲法を可決した当時の貴族院議員、とある。
    ○更に、敗戦後、日本遺族連合会の初代会長(長男が大東亜戦争時、戦死)と言う。
    ○このひとが、南北朝問題の研究の道に入るように成った経過は分らない。
    ○この本の要点は、次の通り。
     (1)南朝の皇統は、現在の熊澤正照王(寛道王)まで続いて居り、
     (2)北朝は滅亡して居る。
     (3)従って、そのあとの北朝天皇は偽朝であり、足利系天皇である。
     (4)熊澤大然尊憲王は、明治四十一年、十一月二日、第一回の上奉文を明治天皇に上奉した。
     (5)明治天皇は、明治十年に「大政紀要」を出版されて、南朝正統とした。
     (6)更に、明治十年元老院発行纂輯の御系図では、貞成親王の父は不詳、と明記してある。
     (7)熊澤大然尊憲王の上奉文が各界に伝わると、大きな波紋を引き起こし、
     (8)遂に国会に於る大問題と成り、
     (9)明治天皇の裁決によって、南朝正統、と決定され、
     (10)時の桂内閣は瓦解した、
     (11)しかし、明治天皇が間もなく崩御されて、そのために、南朝熊澤天皇問題は事実上封印されてしまった、と。
    ○ここでの問題は、北朝が断絶して、そのあとは、足利系天皇である、と言うところであろう。
    ○明治天皇が、公式発表の如く、北朝孝明天皇の皇太子、と言うことであれば、○当然、南朝正統論で行けば、明治天皇は、偽天皇である、○と成るであろう。○にも拘わらず明治天皇が、南朝正統論を裁決された、とは何を意味するのか。
    ○長島銀蔵著は、孝明天皇父子弑逆問題も、○長州大室天皇家大室寅之祐スリ変え明治天皇問題も、全く視野の外に置いてある。○しかし、ここには、鹿島著にも引用されて居らず、○各種の南朝史論にも述べられて居ない、基本的文献と事実が集大成されて居り、○これは、改めて注目すべきものと判断する。(了)
    ~~~~~~~
      「皇統正史」の著者、長島銀蔵とはどんな人物だったのか
    太田龍 時事寸評 更新 平成17年10月25日23時46分
    平成十七年(二〇〇五年)十月二十五日(火)(第一千四百七十三回)
    ○当「時事寸評」前号(17.10.24)に、 長島銀蔵著「皇統正史」を取り上げた。
    ○この「長島銀蔵」と言う人物について調べると、このひとは、明治三十四年(一九〇一年)~昭和五十九年(一九八四年)
    ○静岡県富士宮市に生まれ、横浜瓦斯科学工業社長など、多額納税者として昭和二十一年五月から、二十二年五月まで一年間、貴族院議員。昭和二十五年、参議院全国区から当選、とある。
    ○昭和二十四年の長者番付では、「第二位、長島銀蔵、静岡、ペニシリン製造」と言う。
    ○長男が戦死。昭和二十二年十一月、日本遺族会理事長。
    ○このひとが、どのようにして、南北朝問題を研究して、「皇統正史」を著述するように成ったのか。
    ○それは、このひとが、静岡県富士宮市の出身、と言うことに関係があるだろう。
    ○富士山麓には、「隠れ南朝」の史跡があり、加茂喜三と言うひとの、それについての著作がある。
    ○一応、この線で、理解して置こう。
    ○長島銀蔵氏は、もっぱら、熊澤天皇家についての研究であって、愛知県豊川市 三浦天皇家とは接触が無いようである。
    ○南朝の一皇統が、今の福島県に移られたこと、○そしてある時点で、足利幕府の南朝系を根絶やしにしようとする迫害政策のために、熊澤姓を名乗るに至った経緯が、前出「皇統正史」には詳述されて居る。
    ○前出、長島著によれば、足利義満は、自己の息子を天皇にすると同時に、持明院統(北朝)の血統を全部殺害した、○と成って居る。○従って、この説によれば、足利義満とそのあとの時代に、北朝の血統は絶え、足利義満の血統が北朝と成った、と言うことに成る。
    ○応仁の乱の頃まで、南朝は健在であり、それから足利将軍六代義教が、南朝の血統を根絶せよ、との方針を打ち出した、と言う。
    ○しかし、南朝系の一部は、熊澤家、としてずっと続いた、と。
    ○これに対し、南朝三浦天皇家の方は、熊澤天皇家に比べると、細々とした感じである。
    ○長州の大室天皇家については、その系図は現在に伝わって居ないのみならず、
    ○幕末、大室弥兵衛の代で血統は断絶し、その二人の息子(虎吉、庄吉)は、実は、地家作蔵の息子である、との説があり、○この説を取るとすれば、大室天皇家は、絶えて居る。
    ○大室寅之祐=明治天皇。○この人物は、実は、地家作蔵の息子。                ○して見ると「熊澤天皇家」の方が、まだしも、実在の天皇の血筋である、との見方も成り立つであろう。(了)

    ☆          ☆          ☆          ☆          ☆

    [論評]                        前田 進

     上に紹介した新しい暴露情報が事実とすれば、天皇家の血統は北朝系も南朝系も途絶えていることが分る。北朝系の実体は足利系である。
      薩長は北朝系(公式発表)の孝明天皇を殺害したあと、南朝系と判断したものの実は海賊某の孫だった、勇壮・頑強で左利き、疱瘡でアバタ面、達筆だった大室寅之祐を、孝明天皇の殺害した(別の説:比叡山へ僧として追放した)息子で、女官らとの遊びに余念の無いひ弱で右利き、種痘で顔にあばたがなく字が下手だった「攘夷・佐幕=親徳川」の息子睦仁とすり替えた。そしてその大室寅之祐を明治天皇にでっち上げて絶対主義的天皇制の権力に就けた。だから現在の天皇家は南朝系の天皇家とも血統がなく、虚構の天皇家である。-まだ究明が続行されなければならないが、目下ひとまず、そうした結論になる。
    明治維新は、英国の経験に従って「大政奉還・薩長同盟」の戦略論者だった英国フリーメーソンの商人(大手商社ジャーディン・マジソン社代表)、トーマス・グラバーが、英国大使パークスとの協働の下に坂本龍馬、伊藤俊助(博文)、桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作、小松帯刀、五代才助らへの指導と支援で実現した。
     グラバーの進言でパークスが指導して勝海舟と西郷隆盛の江戸城無血開城が実現した。
     坂本龍馬の「船中八策」と「新政府綱領八策」、それに従った明治政府の「5ヶ条の誓文」はグラバーの指導の成果だった。明治政府は国辱を認めず、面子を重んじて控えめに、グラバーに勲二等旭日重光章を授与した。
     明治維新の5年前1863年にフリーメーソンのマークを冠して新築されたグラバー邸には、彼ら明治維新の志士らの名を挙げて、グラバーが彼らを庇護して明治政府の実現に力を添えた、と明記してあり、邸内屋根裏の隠し部屋がやっと明治維新の119年後の1987年に発見された。
     [参考文献:鬼塚五十一「世紀末666の大陰謀」廣済堂1992]
      こうして、フリーメーソンの指導と援助で明治の絶対主義天皇制が成立した。
    徳川慶喜は暗中模索状態で、王政復古を目指す薩長との妥協に走った重職勝海舟のトロイの木馬的役割りを許し、英国フリーメーソンの指導と軍艦利用、銃砲支援を受けた薩長連合軍に力及ばず敗北した。慶喜はフランス・フリーメーソンの後押しで徐々に天皇制廃止・共和制樹立に目覚めたようで、維新後には、天皇を絶対君主とする明治憲法に対抗して共和制憲法草案を作成したが、後の祭りだった。
     その結果朝鮮植民地化、日本が宣戦布告なき奇襲攻撃で始めた日清、日露戦争の勝利と、自由民権運動の弾圧、人民の搾取・収奪と暴虐支配で強行的な資本蓄積を実現して日本帝国主義が成立したが、日帝はやがて米英帝国主義と対立しながら中国侵略と太平洋戦争へと暴走して壊滅的敗北を喫した。
     太平洋戦争では「鬼畜米英撃滅!」が主要スローガンだったが、戦後は掌を翻すように、長期政権だった吉田茂が「日本はアメリカの妾だ」と言明して米国フリーメーソンに忠誠を誓った。戦前は日英同盟だったが、戦後は米日主従同盟になった。
     小泉もその路線を継続発展させて、米国フリーメーソンの代理人ブッシュらキリスト教原理主義のネオファシスト一派「ネオコン」のグローバルな軍事戦略「先制核ハルマゲドン」に日本を組み込んで、平和憲法改悪、米侵略戦争への加担路線で、売国・亡国の途へ進んでいる。
      * http://tanakanews.com/e0721secondcoming.htm
      ブッシュら米国の日本乗っ取りを目指す「年次改革要望書」に従って、345兆円の郵貯・簡保の国民資金を日本長期信用銀行(現新生銀行)と同様に米金融資本に乗っ取らせる郵政改悪で、小泉はフリーメーソンへの忠実を実証した。これは、吉田、岸以上の祖国への巨大な裏切りになった。
      だから先般の総選挙で日本人の多数が自民・公明に衆議院の2/3以上の多数を与えたのは、愚昧な自殺行為だった。自民党は、公明党の小泉靖国参拝反対を憲法改悪の障害と見て、民主党との大連立目標を公表して、執拗に亡国路線を推進中だ。
     日本の支配勢力が今日、フリーメーソンの世界的な地球破壊・人類破滅の邪悪な路線に従っていることは、本質上明治維新以来変っていない。その一新が日本の活路の一つとなる。
    宇宙管理界の1981年決定で 天皇家は民間人化する運命にある。皇室典範会議の05.11.24の報告書が「女性・女系天皇容認、第1子優先」と発表したのは、その大きな歩みである。
    天皇は、第二次大戦後今日に至るまで続いている反動と革新の激しい対立の結果、国民統合の象徴ではない
    天皇制廃止。自民党改憲案をまかり通してはならない。

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    北関東のある市

    景気のよかったころ、シャープ(家電製品)の下請け工場がいくつも出来て、合計何百人もパートを使って部品製造をやっていた。

    そのパート仕事がおわる4時半以後、周辺のモーテルは満員になってしまった。パートさんたちが自分の会社の社長や外回りの社員と帰宅前の時間を使って楽しむからである。

    そのあと、小学校の入学時の血液型検査は無くなってしまった。
    一割を超える生徒の血液型が両親の血液型からは生まれない血液型だったので、騒ぎが起きるのを恐れた市側が検査をやめたからだ。

    今はカラオケで同様な、お楽しみが行われている。男女とも自分の連れ合い以外に交際相手を持つのが甲斐性があるという県。それも相手が多ければ多いほど大きな顔が出来る風習がある。
    プロフィール

    刈谷瞑考

    Author:刈谷瞑考
    通称天邪鬼。
    以後御見知りおきを。
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